久し振りに、本当に久し振りにこの曲を聞いている(ムステスィラフ・ロストロポーヴィチ指揮、ワシントン・ナショナル交響楽団)。これまでだってたまたまラジオで流れて聞きかじることなどあっただろうけれど、こうして聞こうと構えて真正面からこの曲に向き合ったのは、もしかしたら独身時代以来40年ぶり、いやいやそれ以上のことかも知れない。

 ショスタコヴィッチ第五番とは彼の作曲した交響曲のことである。私の記憶するショスタコヴィッチはどちらかと言えば現代作曲家のイメージなのだが、生没は1906〜1975年となっているから私の年齢を加えるならば歴史の中の人物と言っていいのかも知れない。

 私がクラシックに触れたのは理屈を言えば小中学校での音楽の授業を通じてなのだろうけれど、音楽室でのレコード鑑賞と言うのはどちらかと言えば「勉強しなくてもいい時間、テストと無関係な時間」としての記憶しか残っていないから、クラシックに触れたと言う感覚からはほど遠い。

 私のクラシックへのきっかけについては前にも書いたことがあるけれど(別稿「回転しない音楽」参照)、高校を卒業して税務の職場に入った一年研修の間に宿直の教諭に聞かされたベートーベンの交響曲第五番「運命」が最初であった。1曲を聞くのに黒いSPと呼ばれていたレコード3枚の裏表を使っていたような気がしている。

 ただどうしてこのショスタコヴィッチの五番が私の興味に入っているのかはどうもはっきりしない。もちろん素晴らしい曲だし、クラシックファンなら誰一人知らない者などいないだろう名曲中の名曲ではある。とは言えそのことと私がこの曲を何度も繰り返し聴いていたこととはどうも結びつかない。
 場所は最初に勤務した税務署のあった夕張と言う町の小さなクラシック喫茶、私はまだ19か20歳そこそこの若造であった。薄暗い喫茶店の片隅で、たった一杯のコーヒーで何時間もねばっていた。どうしてこの曲だったのだろうか。ショスタコヴィッチの曲はこの曲以外にはほとんど知らないし、彼の生い立ちや生涯に興味を持った記憶もない。それでもなぜかひたすらにこの曲をリクエストしていたような気がしている。

 そしていつの間にかこの曲を聴かなくなった。クラシック好きの性格はそのご徐々に嵩じていき、レコードの購入も増え、スピーカーだのアンプだのプレーヤーだのと人並みに講釈もするようになってきた。FM放送が流行りだして、どっしりとしたオープンリールのステレオテープデッキを購入してからはFMアンテナを自作するほどにも熱中し録音にも凝った。しかしそれでも私の持っているレコードや録音テープに、このショスタコヴィッチの5番が加わることはなかった。

 特別にこの曲が嫌いになったわけではない。むしろ喫茶店に通い詰めて聴くほどにも好きだったのだし、今だって好きなことに変わりはない。それにもかかわらずこの曲の持つ陰鬱さや重さなどが、例えばチャイコフスキーの6番「悲愴」の持つ暗さなどとは違って、コレクションにするにはどこか躊躇があったのかも知れない。

 それがどうして今になって聴こうなどと思いついたのか。それは最近この曲とビゼーのカルメンとの関係を取り上げたテレビ番組を見たからである。同じクラシック曲ではあるけれど、カルメンの初演は1875年だとされているからこの五番の初演の62年も前の作品であり、時代もジャンルもまるで異質な二つの曲がつながっていると知らされたことに驚いたのである。
 テレビの解説者はこのショスタコヴィッチの五番にカルメンからの引用があること、そしてその引用がショスタコヴィッチがこの曲を作曲したスターリン時代の圧制に深く結びついていると説明していた。
 具体的には第4楽章でのメロディーの一部がカルメンの歌うハバネラからの引用であり、しかもハバネラの中で男声合唱が「信じるな」と歌う部分のメロデーだというのである。

 これまで私はそうした意識でこの曲を聴いたことなど一度もなかった。それでどうしてもそのことを自分の耳で確かめたくなった。幸い近くの図書館では書籍以外に視聴覚教材としてCDも貸与している。これほどの名曲ならば在庫がないなどということはあるまい。

 まさにカルメンが引用されていた。僅か4音であった。ハバネラはカルメンが「恋は野の鳥、誰も手なずけられない。・・・あなたが好きじゃないなら、私が好きになる。私が好きになったら、用心することね」と自分に関心を示さないドン・ホセを誘惑し、手にした赤いバラを投げつける有名な場面のアリアである。そこで歌われるジプシーの男声合唱の僅か4音が第四楽章にあったのである。
 しかしそれが本当に引用なのか、それともたまたま音が似ていたに過ぎないのかそこのところは必ずしも確信をもって断定できるまでの自信はなかった。
 だがこの引用部分とは異なるけれど、ハバネラによく似た、と言うよりはハバネラとまるで同じ旋律が、第一楽章にも出ていたのである。フルートが静かに歌うそのメロディーはまさにハバネラそのものだったのである。ここまでくれば単に似ているだけでは済まされないだろう。

 しかも第四楽章に引用されている部分の邦訳は、解説者の言葉によるなら「信じるな」であり、なんということかこれとは別の指揮者カラヤンをめぐる番組のなかにこのカルメンのハバネラが紹介されていて、そこでの字幕には「ご用心」とあったのである。

 ショスタコヴィッチの生きていた時代はスターリン(1879〜1953年)の時代でもある。第二次世界大戦を取囲むこの時期のソ連はまさに粛清の時代であった。スターリンに異を唱えることはそのまま自らの死でもあった時代である。この5番の初演は1937年だとされている。
 粛清の嵐の中で、近親者や友人たちは相次いで投獄され、彼自身もスターリンに逮捕・処刑されたトゥハチェフスキー(彼のパトロン)に関連して事情聴取を受けていたようである。そうした圧制や粛清の中で彼自ら受け入れられぬと判断した交響曲4番の初演を中断し、この5番を先に初演したと言われている。
 この5番は圧倒的な人気で国民に支持されたと言われている。つまりは「ご用心」の意図は国民にも時の権力者にも見抜かれぬまま、彼は偉大な作曲者としての地位を得ることになったのである。

 「私の交響曲の大多数は墓碑である。わが国では、あまりにも多くの人々がいずことも知れぬ場所で死に、誰ひとり、その縁者ですら、彼等がどこに埋められたを知らない。わたしの多くの友人の場合もそうである、メイエルホリドやトゥハチェフスキイの墓碑をどこに建てればよいのか。彼等の墓碑を建てられるのは音楽だけである。犠牲者の一人一人のために、わたしは作品を書きたいと思うのだが、それは不可能なので、それゆえ、わたしは自分の音楽を彼ら全員に捧げるのである」(ショスタコーヴィチの証言、ソロモン・ヴォルコフ編、水野忠夫訳、中央公論社、P226)。

 第一楽章の弦楽器の不協和音を含むトレモロが不安を誘う。軽快そのものでまるでバレエ曲でも聞いているようだが「不気味な皮肉」とも呼ばれている第二楽章。金管は沈黙し弦楽器だけが悲鳴のようなメロディを延々と続けていく第三楽章。そして終楽章。絶叫するようにティンパニィの連打の中に、あたかもベートーヴェンの第九の歓喜の歌のように圧倒的な力が伝えられる。やがて執拗にしかも堂々とこのハバネラの四音が繰り返される。

 ハバネラのこのメロディーに付された歌詞の意味は恐らく「女心を信じちゃいけないよ」程度の軽いのりだったのではないかと思うけれど、果たしてショスタコヴィッチはこの引用に圧制に対する反旗の思いを込めたのだろうか。上記の著作「ショスタコヴィーチの証言」でもそのことには少しも触れられてはいない。

 この交響曲第五番の発表で彼は国民的英雄としての地位を得た。国民的英雄としての評価とは、とりもなおさず嫉妬心の塊りとも言われる独裁者スターリンからの評価と同義である。この曲に「気をつけろ」のメッセージが含まれているとするなら、それはそのままスターリン不信の表れであり、彼の敷く体制への強烈な批判である。もしその意図が本人だけでなく側近の誰か、もしくは国民の誰かにだって見抜かれたなら、いやいやそうした噂が立っただけでだってその報いが自らの死となって訪れるであろうことはあまりにもはっきりとしている。

 「スターリンを怒らせるには、ごくつまらないこと、なにか不注意な言葉だけでじゅうぶんだった。その人間があまりにも雄弁だとか、あるいはスターリンから見て、教養がありすぎるとか、さもなくばスターリンの依頼をあまりにもみごとに処理してしまったとか、それだけでじゅうぶんなのだ。彼は非業の死をとげることになる」(前掲書p203)。

 私にそこまでの勇気を持つことができただろうかと密かに自問し、そして我が身にはそれほどの器の片鱗さえも持ち合わせていないことをあまりにもはっきりと思い知らされる。彼我の違いはこんなところにもあるのだと、小さな事務所の片隅ながらせめてオーケストラの洪水とインスタントコーヒー香りの中にこの身を置くことでこの五番を理解しようともがいている。

 それにつけても薄暗い喫茶店の冷めたコーヒーをすすりながら、二十歳になったかならないかの私は一体何を考えていたのだろうか。少なくともそこに戦争であるとかスターリンなどの影、ましてやソ連の国民に向けた圧制への「信じるな」のメッセージの存在などまるで知らぬままの私がいた。ただただ、圧倒されるような音の氾濫の只中で、それでもどこか重苦しい思いに身を委ねていたことをかすかに記憶している。

 当時の私の住んでいた独身寮からは歩いて30分もかかる街外れの小さな店である。クラシック喫茶とは似つかわしくない「赤い屋」と言う名の木造の喫茶店である。何度も何度もこの曲を聴くために通った二階へと続く狭く薄暗い階段の記憶である。
 だから私の中で彼の名は「ショスタコーヴィチ」ではなく、依然として「ショスタコヴィッチ」のままなのである。



                                  2008.6.25    佐々木利夫


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ショスタコヴィッチ第五番