今年もまた12月8日が来た。この日のことを私は単なる知識としてしか知らない。太平洋戦争開戦から今年で67年、このとき私はまだ2歳弱だったから記憶のないのは当然のことではあるけれど、これだけの時の流れは戦争そのものを記憶の風化へと誘っていく(別稿「真珠湾?」参照)。
 新聞もテレビも8月15日を中心に動いていて、12月8日はそうした面からも日本における戦争の歴史の風化を裏付けているように思える。

 単純な発想になるかも知れないけれど、戦争の対語は平和である。そんな気持ちもあって、この日は久し振りに「鳥の歌」が聞きたくなった。「鳥の歌」はスペインのカタロニア(カタルーニヤ)地方に伝わる民謡である。この民謡を私が直接知ることはないのだが、チェロ奏者でこの地方出身のパプロ・カザルス(1876〜1973)がチェロ独奏曲として作曲したのをかつて聞いたことがありCDを手に入れた。
 この曲を12月8日に聞ききたいと思ったのは、カザルスが1971年ニューヨーク国連本部で自らこの曲を演奏したときに、こんな発言をしたと伝えられている言葉が印象に残っていたからである。

 それは演奏前のこんな一言であったと伝えられている。

 「私の生まれた故郷カタロニアの鳥は、平和(ピース)、平和(ピース)と鳴くのです」

 恐らくその時の演奏は録音され残されているのだろうけれど、この一言を契機として有名になったこの曲は、その後多くのチェリストの演奏曲目に加えられることになった。私が持っているのは残念ながらカザルスではなく、オーフラ・ハーノイによる演奏である。

 静かで、そして祈りに満ちているとも、せつせつと訴えているとも言えるメロディの美しさは、声高らかに平和を謳歌すると言うのでは決してないけれど、しみじみとした平安を伝えてくれる。僅か2分少々の曲ではあるけれど、祈りと言うのはこうした小さなものなのかも知れないと改めて気づかせてくれるようだ。

 祈りとは何かについて私はまるで知らない。日本人の祈りにはどこか「声を出して商売繁盛や家内安全などを神様にお願いをする」みたいな要素がある。だから教会でマリア像にひざまずくような祈りの姿に接する機会はほとんどないと言っていいだろう。ましてや「平和を望む」などといった抽象的な祈りの姿など・・・。

 ただ、こうして来客もない一人の事務所でテレビを消して静かにこの曲に触れていると、祈りとは信ずることであり、信じると言うことは真偽を超えるものなのかも知れないと思えてくる。祈りとは信ずることの一つの表現であり、祈ることそのものの中に目的や手段を超えた大切な何かが秘められているように思えてくる。それはまさに幼い子供がサンタクロースを信じていることのように、理屈や証明ではない単なる「信ずる姿」の中に永遠であるとか久遠そのものが含まれているかのようである。

 現代はまさに争いの最中にある。イラクやアフガニスタンに限らない。中国政府とチベット仏教徒最高指導者ダライ・ラマ14世との先の見えない交渉や、パキスタンを空爆するとのインド政府の警告、タイ空港占拠とそれに続く政治の混迷、ギリシャアテネに広がる若者の暴動、フィリピンでの銃撃戦による民間人の死亡、六カ国協議における北朝鮮との核開発問題を巡る各国の思惑・・・、これは12月8日たった一日の朝日新聞朝刊4面に掲載されていた出来事である。

 「平和など幻想にしか過ぎない」とあっさり片付けてしまうことはたやすいけれど、やはり願い続けることの中に道はあるのだと信じることが遠い実現への一里塚になっているのではないだろうか。

 人は歴史から学ぼうとはしなかった。それは現存し多発する争いの存在が余りもはっきりと示している。それでも平和を信じることが、そうして祈り続けることが平和の実現につながるのかも知れないと思えるときがある。
 ただ祈りには赤ん坊が母に我が身を委ねるような全人格による無制限な信頼が必要なのかも知れないと思い、だとすれば我々にはまだ祈るための資格が備わっていないのかも知れないとも感じている。せめてはこの「鳥の歌」を聞くことで、祈りへと近づくことを私自身に確かめるよすがにでもすることにしようか。



                                     2008.12.10    佐々木利夫


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12月8日の鳥の歌