症例 2 飲まない期間が続くと飲みたくなる(前段からの続き)

 飲み会を減らすということは、その会合に参加している人たちとの付き合いそのものの減少をもたらすことでもある。もちろん、会合に参加した上で酒も飲まず料理も食わないと言う方法も選択可能である。だがそもそも若い頃からの酒好きとして仲間にも知られているこの身とって、いかにダイエットのためとは言いながら「注がれる酒を断ったり食べたい料理にも手をつけない、しかも相応の会費を払っていながら・・・」と言うのは、なんとも不条理である。また、いちいち言い訳しながら盃を手で塞いだりウーロン茶を飲むような行為も、なんとも不本意である。そんなことをするくらいなら最初から欠席したほうがましと言うものである。ともあれ、そんなこんなでそうした付き合いの減少もなんとか定着してきた。自宅へ定時に帰る機会が少しずつ増え、その分女房殿にとっては晩飯を作る回数が増えていくことにはなるけれど、まあ土・日も含めて「亭主は留守」を実践しているのだからそれくらい我慢してもらうことにしようか。

 さて、月に数回の飲み会を残してどうやら酒も宴会食もかなり減少してきたし、それに比例するかのように体重の減少も目に見えるようになってきた。

 それからである。酒のない日が3日、4日と続き、やがて一週間を迎えるようになる。そうなってきて、「酒を飲みたい」との思いが少しずつ募ってくることに気づいてきた。毎日のように酒を飲んでいる人に対する言葉に「休肝日」と言うのがある。体を壊さないために、せめて週に1日か2日くらい酒を飲まない日を作って肝臓を休ませよう、との意味である。私の酒の中断理由は別に肝臓のためではないのだが、酒のない日が続いていくと「飲みたい」との思いが自然に湧き上がってくるのである。つまり「もう6日も酒を断ったのだから・・・」、「一週間も酒を飲んでないんだから・・・」に続き、「そろそろ飲んでもいいんじゃないか」との思いが昂まってくるということである。

 だからと言ってそうした日に、タイミング良く飲み会がぶつかってくれるわけではない。ならばと言ってこっちから仲間に「飲まないか」と誘うのも、仲間と話がしたいとか相談があるのならとも角、酒を断つという手段を自から宣言した立場からすれば、どこか後ろめたいものが残る。しかも飲み会を敬遠するような生活スタイルを定着させ、飲める機会そのものを減少させてきたのは自分自身ではないか。

 10日も酒のない日が続くと、どこかで中断していることへの信念が揺らいでくる。中断を果たしていつまで続けていけばいいのだろうか、と思い始めるのである。もちろん酒断ちの目的がダイエットやその時間を夜の読書に振り向けるなどにあることは理解しているのだが、だからと言ってそのために「生涯酒を断つ」というほどの覚悟まで決めたわけではない。仲間から誘いがあればすぐにでもいそいそと出かけていく準備はいつでも整っている。

 アルコールが体から切れかかってきて、手が震えたり酒以外のことを考えられなくなるような禁断症状を起こしているわけではない。例えば明日か明後日に飲み会が予定されているのなら、その日まで酒断ちを続けることなど造作もないからである。でも10日を過ぎても飲み会の予定が見えない状態は、「気持ちのいらいら」ではないものの日に数度は「飲みたいな」という気持ちが湧き上がってくる事実は否めない。もしかしたらこれも禁断症状の一つではないのだろうか。

 症例 3 一人でも飲むことがある。

 さて上記のような状態が続いているにもかかわらず、仲間からも忙しいのかさっぱり誘いがかかってこない。「そろそろ誘いがあるはずだ」と思えるときは数日くらいその思いで断酒を延長することはできるけれど、それでも誘いが来ないときは事務所で一人で飲むことにする。状態はまさにリビングドリンカーである。簡単な鍋料理の材料を近くのスーパーから仕入れて、午後6時近くからおもむろに一人の宴会をささやかに始めるのである。

 仲間とわいわい騒ぎながらの酒も嫌いではないけれど、かのこよなく酒を愛した若山牧水も、「しらたまの歯にしみとほる秋の夜の、酒はしづかに飲むべかりけり」と詠ったではないか。この酒はきっとひとりの酒である。ひとりの酒にはひとりの静かさがある。来し方をふと省みる、それも私にとってのひとつの伴侶でもある。

 当然に話し相手はいないから、お相手はもっぱらハードディスクに取り溜めたビデオの再生になることもある。近くにレンタルビデオ店もあるけれど、わざわざDVDを借りてきてまで見るほどの興味はない。テレビ録画の撮り溜めだけで多少持て余すほどのヴォリュームになっているのでその消化だけで十分である。映画というよりはドキュメントであるとか教育テレビの録画など1時間程度の番組を2本ばかり見ることが多い。時に草野心平や室生犀星の詩集に手を出すこともある。

 まず缶ビール500ml1本、そしてそれが終わると日本酒に入る。と言っても缶ビールだけで小一時間を要するので、小さなグラスで日本酒を2合くらい空けると9時に近くなっている。ここ数年は、酒を飲んでも午前様になるようなことは丸でなくなり我が家到着午後10過ぎが定着してきている。素面なら歩いて家へ帰るけれど、飲んだ日はJRかバス利用である。だとすれば一人で飲んだときも10時くらいには事務所を出ることにする。

 症例 4 飲んで帰ってからも飲む

 一人で飲んで家へ帰る。まだ11時前だから、夜は長い(ような気がする)。酒を飲んだのだから、多少とも酔っている。だからじっくり本を読むことなど難しいし、だからと言って寝るにも少し物足りない。・・・で、机を前に小さなグラスに日本酒を一杯注ぐ。時に二杯になることもあるし、二杯目を残したまま布団に入ることもある。
 まぁ、言ってみれば「今日は飲んだぞ」と、普段は飲むことのない自宅における別な自分へのささやかな乾杯であり、また明日の夜からはこの場所での酒とは再び縁遠くなることへの決別の一杯でもある。

 症例 5 飲んだ翌日には、朝から飲むこともある

 このパターンが一番問題なのかも知れないけれど、「昨夜飲んだ」と言うことは今夜からまたしばらく飲めない(飲まない)日が続くことでもある。そうした酒と縁のない期間は、避けられない飲み会などが飛びこんでこない限り、恐らく向こう10日から二週間ほどは続くことになるだろう。昨日の酒の余韻が多少とも残っている今朝であるが、普段どおり朝食を済ませて事務所への出勤である。シャワーを浴びて、「さあ、今日は溜まった仕事も来客の予定もない」、そんな日が月に一度(時には二度)くらいある。もう少し昨日の酒の余韻にひたっていたい気持ちが事務室のどこかに残っている。おまけに冷蔵庫には昨夜の鍋料理に使った肉や野菜などの残りがその後始末を手ぐすね引いて待っている。

 この残っている材料をそのまま昼飯代わりだけにしてしまうには忍びないとの声が聞こえる。朝酒がアルコール依存症者の示す行動パターンの中に多く見られることくらい気づいてはいるけれど、「よし、缶ビール一本と酒少々を昼まで・・・」との誘惑がふと頭をよぎる。明るいうち、それも午前中の酒にはどこか罪悪感が残るけれど、この場で楽しんだ昨夜の久し振りの余韻を鎮める儀式みたいな気持ちに、「昨日の酒は10日振りだったからな・・・」みたいな思いが拍車をかける。酔っぱらうまで飲むつもりはないけれど、昨日の残りの材料と昼食を兼ねたひとり酒が昼くらいまで続くのである。

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 私のアルコール依存症疑惑に連なる症例記録はこれで終わりである。こうした状況がアルコール依存症につながるのかどうか、それとも依存症への過渡期にあるのか、そもそもアルコール依存症とはなんなのか、単なる酒好きとはどこか違うのか・・・、それらを少し私自身の中で検証していきたいと考えている。

                               私の中のアルコール依存(その3)へ続く



                                     2009.11.13    佐々木利夫


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私の中のアルコール依存
         (その2)