さて(その1)(その2)で私がどこかアルコール依存になっているのではないかとの危惧を示す症例をいくつか挙げてきた。それでは一体、アルコール依存症とはどんな状態を言うのだろうか。アルコール依存や依存症と、いわゆる「酒好き」とはどこが、どんな風に違うのだろうか。

 そのためにはまず「依存とは何か」から考えていく必要がある。アルコール依存と言うのだから、アルコールつまり酒そのものに依存していることが考えられる。だが本当にそうなのだろうか。「酒が好きで好きでたまらない、酒なしでは生きていけない」と言うなら、仮にその本人が金銭的に裕福でなんなら酒蔵ごと買い取れるくらいの資力が十分にあったとすればそれで解決できるのだろうか。例えば密室の中に酒の出るような水道の蛇口がいくつかあって、本人の好きなときに好きな酒が好きな量だけそこから出てくるような環境があったとしたなら、そのことで体を壊すなどは別にして「アルコール依存」そのものに対して本人は満足し続けていけるのだろうか。

 「アルコール依存症はアルコールへの依存なのではないか、と思われるかもしれない。確かに彼らは『酒さえあれが妻なんかいらない』と日常的に放言している。しかし大草原のパオの中でひとりで酒を飲めれば天国かと言えばそうでもないのだ。自分の飲酒によって影響を受けてくれる人がいること、自己破壊の淵まで追い詰められそうになったとかそこから引き戻してくれるひとがいることで、彼らは『安心』してアルコールに依存するのだ」(「共依存、からめとる愛」、信田さよ子、朝日新聞出版P47)。

 これから分かることはアルコール依存とは、もしかしたらアルコールそのものへの依存ではなく、アルコール依存を許容してくれる状態への依存なのかも知れないと言うことである。つまり、アルコール漬けになることそのものがアルコール依存の目的ではなく、「酔ってべべれけになる私」を保護してくれる状況に安住できること、それへの依存なのではないかと言うことである。
 それともう一つ。依存とは例えば酒が切れてくると体が震えだすとか、うわ言を言いだすなどの禁断症状が起き、それを鎮めるために酒を飲むと言う形の肉体的依存なのか、それとも「何が何でも酒が飲みたいとの思い」が頭の中を途切れなく巡っている精神的な依存なのかを分けて考える必要があるのかも知れないことである。

 アルコール依存の定義についてネットで探ってみたけれど、必ずしもきちんとした説明は見当たらなかった。ただ「あなたは今までに」に続けて次のような質問に回答させることで、アルコール依存のチェックの目安とすることが多いようである。それはこのうち二つ以上に当てはまればその可能性が高いとするものである。

 ・ 飲酒を減らさなければいけないと思ったことがあるか
 ・ 飲酒を批判されて、腹が立ったり苛立ったことがあるか
 ・ 飲酒に後ろめたい気持ちや罪悪感を持ったことがあるか
 ・ 朝酒や迎え酒を飲んだことがあるか

 アルコール依存者が書いた著書の中から、ランダムに依存の状況を書き抜いてみた。

 「家での飲み直し」、「増え続ける酒量」、「翌朝のブラックアウト(昨日のことを覚えていない)と二日酔いと自己嫌悪」、「マスクと口臭消し(をしての出勤)」、「節酒だけでもこれほど辛いのに、断酒など絶対に無理」、「ベッドでウィスキー」、「着替える前にワインを一口飲み、脱いだ服を洗濯機に入れるついでにまた一口、メークを落とす前後に一口、夕食を終えてから新聞やテレビを見ながらちびちび飲んで、お風呂上りに残りを飲み干して、寝る頃になるとボトルが空になっています。週に何度かは、次の二本に手をつけて半分ほど飲み、翌日帰ってきてから残りの半分を飲み、もう一本を空にすることもありました」、「・・・体内には常にアルコールが残っている」、「酔いが回っているために、『ここでやめておこう』という歯止めが利かない」、「三日の禁酒が終わったら、浴びるほど飲んでやるぞと自分に言い聞かせます」、「欲求に従って飲めば、ブラックアウトしてしまう。・・・やがて気づいたのは、お酒そのものを欲しているのではなく、『飲みたいという欲求を満たしたときに得られる満足感』を得たいのではないかということだ。・・・だからどれほど飲んでも『永遠に飲み足りない』のである」、「翌日には後悔と自己嫌悪が待っている」、「適正飲酒への模索と挫折」、「ゆうべも飲みすぎたという後悔をひきずって出社する会社員」、「・・・『昼間から飲む』のではなく、夕方の早い時間帯だと思っているんですよね、飲むときは・・・」、「無理に禁酒しなくたって、一合でやめられるもん。証明するために今夜は一合だけ飲もう」、「飲めば飲める晩に禁酒するのはもったいない。・・・損をする」、「薬物ならともかく、アルコールなら犯罪にならない」

 (「今日も飲み続けた私、プチ・アルコール依存症からの生還」、衿野未矢、講談社+α新書)


 さてこうしたチェック項目や状態を私自身に当てはめてみると、「ほとんど大丈夫」との答が返ってくる。数十年前の若い頃ならまだしも、昨夜どこで飲んだかどんな風にして帰ってきたか記憶がないなどのブラックアウトはここ数十年経験したことがないし、酔ってトラブルを起こしたことも生まれてこの方皆無である。酒そのものを旨いとは思うけれど、もちろんのこと酔った気分を味わうことも飲むことの目的だから、多弁になったり多少ふらついて歩くことだってあるがそれで他人に迷惑をかけたことはない。
 結果的に自己判断に頼るしかないけれど、病的な飲酒パターンであるとか、社会的・職業的な機能障害を起こしたことだってないと断言できる。もちろん酒に伴う暴力、経済的困窮、交通事故なども含めてである。自宅にも事務所にも酒瓶の在庫は常時残っているけれど、私にはそれに手を触れることもなく10日も二週間もの断酒をする意思と実行力があるし、飲み会だって二次会も含めて午前様になった経験もここ10年くらいはまるでない。酒量だって増加していくことはないし、つまりは穏やかに帰宅できる程度にはきちんと酒量をコントロールできていると言うことである。

 だが、こうしたコントロールがいかに脆いものであるかを、私は心のどこかで知っているような気がする。先に掲げた自己診断の質問やその後の書物からの書き抜きなどからも分かるように、つまるところはその判断は程度の問題だからである。それは例えば麻薬のように、「ヤクをやったかやらなかったか」のような二者択一の判断ができないことでもある。酒好きであることがそのままアルコール依存だと言うならことは簡単である。だがそんなことを言っちまったら晩酌にしろ付き合い酒にしろ、好きで酒を飲んでいる全員が該当することになってしまい、逆にアルコール依存の問題そのものから乖離してしまうことになってしまうからである。

 真夜中のバス乗り場のベンチに座って、コンビニで買った「ウィスキーを一口啜って、おにぎりをかじる」(重松清著、「流星ワゴン」P20、講談社)のような酒にはなりたくないとは思うけれど、だからと言ってこの主人公がアルコール依存症なのでは決してない。だから酒には様々な人の思いが重なっているのかも知れないと、ふと、思うこともある。

 だとすれば、依存症の問題は麻薬などの場合を除くならそのほとんどが程度の問題と言うことになる。ならばその程度とは何なのか。「きちんとした自己管理」と「ほんのちょっとだけ飲む」こととの境の何と危ういことか。10日の禁酒を頑張れると言い張ったところで、9日、8日、1週間、3日、1日おきに酒を飲むことどこが違うのだろうか。酒量を自分でコントロールできると自負できるなら、例えば「毎日グラス一杯くらい飲んだって、どーってことはないよな」と思うこととの違いを果たしてどこに求めればいいのだろうか。

 恐らくある人が少なくともアルコール依存症でないと判断するための背景には、どこかでその人自身に「ここまで」とする何らかの自律・他律の壁が存在していることが必要なのではないだろうか。そしてそれは家族であるとか職場や近隣などとの付き合いの中における一種の「抑制の効果」によるものなのではないだろうか。
 もちろんそうした抑制が、円滑な社会関係を構築していっているとの事実を否定したいのではない。そうした抑制をする意思その存在そのものが、いわゆる良識ある社会人であり、常識人であり、良き配偶者や親や職業人としての地位を保つことの原動力になっているのではないだろうかと言うことである。

 ただそうした背景と言うのは、逆に言うならなんと脆いものなのだろうかとも感じてしまう。そうした背景を「絆」と呼ぼうが「しがらみ」と呼ぼうが、ほんのちょっとしたきっかけであっさりと崩れてしまうような危険性を常に潜ませているのではないだろうか。

 「酒を飲む量を自らの力でコントロールできない者」が全国に推定で440万人近くもいると言われている('09.11.4、NHK、朝7:00のニュース)。この中には、定年退職後にそうした状況へと陥った人もけっこう多いのだそうである。程度の問題なのだから、そんな人たちをひっくるめて「すべてアルコール依存者だ」と呼ぶことはできないだろう。ただ、こうした事実は会社などとのつながりが切れたことであるとか肉親との離別など、ほんの僅かなきっかけが「アルコールの抑制」と言ったタガを外す要因になっていることを示している。

 確かに私はアルコール依存者ではない。そのことは断言できるだけの自信は持っている。だがそのことと、私自身がアルコール依存者予備群の位置にいることとはなんの矛盾もしないのである。「酒飲みってのはだれでもそんなもんさ」と言ってしまえばそれまでのことかも知れないけれど、「酒好き」にはどこかで「アルコール依存者」への陥穽を身近に持ちながら己の人生と向き合っているのかも知れない。

 ただ2週間も酒を断っていると、「飲みたい」と言う気持ちの昂まりが10日目くらいの感覚と比べるなら僅かだが低くなってきているような気配が感じられ、そのことが多少救いになっている。そうした気配が「私は依存症ではない」との判断を多少なりとも後押ししてくれているような気がするからである。だからと言ってそうした気持ちに便乗して、「さあ、これから半年くらいは酒を断ってみようか」などの覚悟を決めるきっかけまでになってくれることはないのだが・・・。



                                     2009.11.20   佐々木利夫


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私の中のアルコール依存
          (その3)