気になったきっかけは、「核なき世界へ」をテーマにした新聞の特集記事であった。

 「『シカゴの奇跡』 被爆者らにこう呼ばれる話がある。07年秋・・・重いやけどを負った子ども、火葬のために並べられた遺体、戦後も原爆症に苦しむ人々。写真パネル48枚を(シカゴ、デュポール大の学生会館の)長さ25メートルの廊下に並べたその前を一人の上院議員が通った。・・・バラク・オバマ氏だった。(展示者はこの写真展のスタッフにこの時のオバマ氏のことを尋ねた)。一人は『立ち止まった様子はなかった』と答えた。・・・もう一人は『自然と目に入ったはずだ』と言った。ヒロシマ・ナガサキの思いが届いたかもしれない・・・」(8.2朝日)

 「届いたかも知れない」とこの展示者は密かに思う。「オバマ氏は被爆写真を見たに違いない」、「だとすれば被爆者の思いが届いたかも知れない」、ここまでくるとあとは独断である。その思いは「見たに違いない」との確信に変わり、やがて「核廃絶の演説は偶然目にした廊下の写真が最後の決断を促した」との思いへと続く。こうした空想とも言える思いは、やがて「シカゴの奇跡」と言われるまでに膨らんでいく。

 私はこの事実についてのオバマ氏の内心を知らない。記事を読む限り展示会を開いた者もこの記事を特集した記者からも、少なくともオバマ氏が写真を見たとする事実も写真に気づいたことすらも裏付ける内容は示されていないし、またオバマ氏自身が写真展に関する発言をしたことなどにもまるで触れられていない。つまり「シカゴの奇跡」はまさに「見たに違いない」、「もしそうだとするならば・・・に違いない」の連鎖として発展し、しかも展示者や原水爆を批判する者にとって都合のいい展開へと無制限に増殖していったのである。

 こうした仮定を連ねていく論述のやり方については他の事例に関してではあるが既にここに発表したところだが(別稿「風が吹けば」参照)、自らの意見の正当化にこうした論法を使うことにはどこか危うさが感じられてならない。「人間なんてそんなものさ」とあっさり割り切ってしまえるならそれはそれでいいのだろうが、そうした展開の仕方はどうしても身勝手になりがちであり、逆に他者の共感を得るための努力の放棄にもつながってしまうのではないだろうかと思えたのである。

 これも最近の新聞に寄せられた投書である。

 「・・・裁判員は初体験の中で、・・・弁護側の活動に制限があったのかもしれないが、結果的に検察側の証言だけを聴かされたのではないか。それが被告の供述がほとんど無視されることにつながったとしたら、公正中立な裁判だったといえるだろうか。」(8.10朝日)

 「・・・高速道路が無料になったら利用する車は大幅に増え、一般道路と化すことはは明らかである。そうなれば慢性的な渋滞が予想され、早く走ることは到底出来なくなるだろう。・・・あおりで鉄道やバスの利用者は激減し、地方路線の廃止が進むだろう。その結果、車を持たない経済弱者やお年寄りは無料化の恩恵を受けられないばかりか、日常生活の足まで失うことになる。・・・」(8.16朝日)

 「・・・のではないか」、「・・・なるのではないか」、「だとすればこうなるのではないか・・・」と、人は自らの都合のいい結論を導き出すために都合のいい過程を作り上げ、それをつなげることで一つの一貫性を担保しようとする。だが、そうした仮定で結びつけられた思いの羅列は、決してある結論を証明したことにはならないはずである。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」は、決して強風と桶屋の繁盛を結びつけるものではないはずである。だからこそこの物語は落語として長く人々に愛されてきたのだと思う。確かに一つの仮定から次の過程に移ることを他者にきちんと納得させることは困難な作業である。だがそうした努力を重ねてこそ、人はその結論なり意見なりの正しさを他人に伝えることができるのではないだろうか。そしてそうした努力の繰り返しが、他者の意見を信用するという社会を構成する人集団にとっての大切な財産を築き上げてきたのではないだろうか。

 身勝手に都合のいい仮説だけを重ねていく風潮を続けていくと、人はやがて他者の意見を「聞いたふりをする」し、「聞き流すだけで信じない」方向へと流れていってしまうのではないだろうか。
 現在テレビのワイドショーを賑わしている話題に、ある有名女性芸能人の覚せい剤疑惑がある。芸能人なのだから興味本位の追っかけ取材は当然なのかも知れないけれど、僅かなデータを基に「もし・・・」、「だとすれば・・・」、「・・・に違いない」だけが延々と繰り返される報道は、テレビ不信をますます増幅させるばかりであるような気がしてならない。

 事実を示すことで「相手を分からせる」こと、事実に基づいて「相手の言い分を理解する」ことこそが人間関係の基本にあるはずなのに、身勝手な仮定と思い込みの組み合わせによる情報処理の氾濫は、いつの間にか互いをきちんと理解しようとする人の心の動きまで封じてしまうように思えてならない。



                                     2009.8.20    佐々木利夫


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・・・だとするならば