世界中が不況の真っ只中にある。アメリカのサブプライムローン問題に端を発した金融不安は、実体経済を巻き込んで未曾有の恐慌とも言うべき姿を世界中に撒き散らしている。
 先月21日に新しく就任したアメリカのオバマ大統領も、日本の麻生総理大臣も、いやいや世界各国の要人のほとんどが今回の不況を「100年に一度」と呼んでいるようだ。

 恐らく「100年」にそれほどの意味があるわけではないだろう。100年前といえばまだ第二次世界大戦勃発の前になるのだから、現在の経済環境と比較すること自体無理があると思えるからである。恐らくその真意は「これまで経験したことのない」と言うほどの意味なのであろう。

 100年来だろうが50年来だろうが危機は危機なのだから、問題はその危機をどうしたら回避できるか、どうしたらいち早く回復できるかが政治や金融に携わる者の責務であろう。「100年に一度」などと途方に暮れたままの徒手空拳では事態の進展など望めないだろうからである。
 評論家は相も変らず政治が悪い、政府がなんとかせいを繰り返すばかりで、時に見かける提案じみたストーリーも口先ばかりの抽象的な姿勢を繰り返すだけのものになっている。

 ただこんな場所で何の力も持っていない税理士が御託を並べてみたところで、まるで意味がないことくらい承知の上で言わせてもらえるなら、現在の派遣切りなどの人員整理を中心とした企業の動きには、どこか社会全体が歪んできていることを示しているような気がしてならない。
 「首切り」だとか「人員整理」、「解雇」などの呼び方はともかくとして、企業が雇用契約を破棄する現象は何も今に始まったことではない。労働法における雇用と解雇の問題についてはかつて税法上の給与所得を考える上での一つの手がかりとして研究したことがあったけれど(別稿論文「給与所得の性格と課税上の問題点」参照)、そこまでの掘り下げをしなくたって現在の濫用とも思えるような使用人の解雇だけに頼っているかに見える現象は、とんでもなく異様な事態だと思えてならない。

 確かに日本にだって一時帰休や解雇など、雇用をめぐる労使の対立は昔からあった。だが日本におけるそれはアメリカでの労使関係とはまるで違う日本独自の雇用の考え方の上に成り立っていたのではないだろうか。
 そうした日本的労使関係が現代ではすっかり壊れていっている。恐らくそれは日本が長い間セフティーネットとして培ってきた終身雇用制度のあまりにも極端な崩壊が背景にあるからなのかも知れない。解雇権は使用者としての当然でもあり正当な力の行使である。だがその力の行使が単なる契約と言うシステムに乗っかったものではなく、基本的に定年までその職場に勤務し続けることができるという背景の下に成立していた制度ではなかっただろうか。

 もちろん終身雇用が全面的に正しいシステムだなどとは思わない。刑法に触れるような悪いことさえしなければ、職場への貢献度などとは無関係に雇用が切断される恐れはないような考えを従業員に植え付ける弊害を生んでいたことも事実である。そうした考えは例えば公務員などに対して「休まず、働かず」みたいな勤務態度をあたかも事実であるかのように評価しようとする動きにも見ることができる。

 それが今はどうしてこんな風に経営中心、契約中心、そして成果中心のような殺伐とした時代になってしまったのだろうか。派遣社員や契約社員などの非正規労働者の増加は、とりもなおさず昔ながらの終身雇用からの離脱を意味している。

 「資本主義の崩壊」などとの無責任な論評も出始めている今の実体経済の動きは、人が現在の進路の選択を誤ったことを示しているのではないだろうか。その論拠の一つには、マルクス経済学(マル経)からの離脱があげられている。近代経済学(近経・きんけい)が世界中を席巻し、数式による経済法則が政治も経済も支配するようになってきた。人間の欲望と言う不確かな要素を基にしたマル経よりも、微分や積分を羅列した方程式の方に人はより合理性を見たのかも知れない。そう言えばノーベル経済学賞なども最近はそうした系譜に連なるものの頭上に輝くようになってきている。
 マネーゲームが世界中を駆け巡り、人も社会も政治も、そうした動きをコントロールできないでいる。そうした中で人々の心は荒み、金が命とうそぶき、欲望が昼夜を分かたず善悪を超えて跋扈する。

 現代の資本主義がどういう経過で成立し定着してきたのか私は必ずしもきちんと理解しているわけではない。また現在の資本主義を超える新しい制度が存在するのかどうかなどについては更に知らない。
 しかし、無責任な言い分であることを承知しつつ資本主義が崩壊しようとしているなら思い切って崩壊させてみたらどうだ、みたいな気持ちがどこからか湧いてくる。
 日本も世界も繁栄することに少しこだわり過ぎてきたのではないだろうか。「足るを知る」ことで、もしかしたら隣近所と味噌や醤油を貸し借りしながら縁側で日向ぼっこのできるのんびりした日常が戻ってくるのではないだろうか。
 私たちは繁栄であるとか栄光の基礎を、あまりにも裕福であることに求め過ぎ、どこかで進むべき道を間違えてしまったのではないだろうか。しかもその間違ったことによる報いを、間違いの原因を作った人たち以外の犠牲で償わせようとしているのではないだろうか。

 「日暮れて道遠し」の感がしないではないけれど、「裕福であること」の意味をもう一度社会全体が自分自身のテーマとして問い直してみる必要があるのではないだろうか。
 経済の発展なくして税収がなく、税収なくして国家の働きとしての福祉などもまた成立しないとの理屈も分からないではない。また努力した個人には相応に報いるという「所有権」を基礎とした現代社会の構造もそれなりに理解できる。

 それはそうなんだけれど、どこかで「公共投資の全廃」、「政治家や官僚の不要」、「金持ちのいない世の中の成立」、そんな過激とも思える考えがふと頭をよぎるのである。そしてそうした思いの背景には、「100年に一度の大不況」と呼ばれる混乱をまさに目の前にして私が抱く「資本主義ってのは、思ったよりも脆いもんだな・・・」との拭いがたい実感があるからである。



                                     2009.2.25    佐々木利夫


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100年に一度