タイトルに掲げた「壁」、「卵」は、いずれも2月22日に作家村上春樹がエルサレム賞を受賞した際に述べたとされるスピーチからの引用である。彼、村上春樹はこんな風に壁と卵の比喩を語ったという。

 「もし硬い、高い壁と、そこに投げつけられて壊れる卵があるなら、たとえ壁がどんなに正しく、卵がどんなに間違っていても、私は卵の側に立つ」

 文芸評論家の斉藤美奈子氏はこのスピーチに対して、「・・・このスピーチを聞いてふと思ったのは、こういう場合に『自分は壁の側に立つ』と表明する人がいるだろうかということだった。作家はもちろん、政治家だって『卵の側に立つ』というのではないか。卵の比喩はかっこいい。総論というのはなべてかっこいいのである」と評した(朝日新聞、’09.2.25朝刊、文芸時評欄)。

 私もそうした思いに同調できないではない。正論のかっこよさとその無意味さ、更には解決能力のなさ、言葉だけでは腹の足しにすらならないことなどなどについては様々な場面でうんざりさせられているからであり、そうしたことについては前にも書いたことがある(別稿「正論への疑問」参照)。

 そわさりながら、私はこの村上氏の態度のみならず言葉そのものにも疑問を持ってしまうのである。壁と卵の比喩がイスラヘルのガザ攻撃に対するものであることは、エルサレム賞のたどってきた経過や行われた場所、賞の意味や村上氏に対して受賞を拒否すべきだとする多くの意見があったことなどからもはっきりしている。

 だが比喩を用いたことで彼はイスラヘルとガザという個別の問題を、抽象化し一般化してしまったのではないだろうかと私は思ったのである。そしてその抽象化は人々に間違ったメッセージを与えてしまったのではないかと感じたのである。彼がイスラヘルのガザ攻撃を批判したいと願ったのであれば、攻撃の事実を比喩として示すべきではなかったのではないかと思えてならないのである。
 もし彼がそうした事実に反対の意見を持ち、それをメッセージとして伝えたいと望んだのならば、比喩など使わずに「ガザ攻撃は誤りだった」、「私はこの攻撃に抗議する」と直接的に表現すべきだったと思ったのである。

 受賞の経過や述べた場所などから、このスピーチを聞いたすべての人、そして人伝えにしろそのスピーチの内容を知ったすべての人は、この比喩をガザ攻撃に対する一つの批判だと理解したであろうことを否定したいのではない。それでもなお私は、この比喩の用い方は誤りではなかったかと思っているのである。

 それは「壁」を「どんなに正しくても」と評価し、「卵」を「どんなに間違っていても」と位置づけてしまっているからである。壁に向かって投げつけられた卵が無残につぶれてしまうであろうことは証明以前の当たり前の事実である。万が一にも卵の攻撃によって壁が破壊されてしまうことなど決してありえないことは、村上氏自身が十分に理解していることであっただろう。

 にもかかわらず彼は卵の側に立つと表明した。こうした読み方、理解の仕方は、私自身が彼の抱く意図をきちんと理解できていないからだと言われてしまうならそれはそれで仕方のないことではあるのだが、「壁」が本当の意味で正しいとしても、それが「壁」であるというだけで対立する卵の側に立つという姿勢が本当に許されていいのだろうか。

 「壁」とは恐らく「権力」や「他人をねじ伏せる力」を示したものだろう。多くの権力がこれまで弱い者を虐げてきた事実を私は否定したいとは思わない。また、イスラエルによるガザ攻撃を擁護しようとも思わない。「無差別に砲弾を撃ち込む力」を「壁」と位置づけ、着の身着のままで逃げ惑う一般の住民や子供たちを抗う術なき弱者と見て「卵」と呼ぶことにも否やはない。

 だがそれはその限度でしか意味を持たないと私は思う。壁と卵の比喩が「イスラヘルのガザ攻撃」と言う現実をのみ表明するだけに止まるものだとするなら、その表現に私も異論はない。しかしことの比喩はその限定された解釈を超えてしまうのではないだろうか。

 彼の言い分は「壁」は「壁」であることだけで「卵」からの攻撃を甘んじて受けなければならないことを伝えるメッセージになってしまっているからである。
 私には、「どんなに正しくても壁が壁である限り存在そのものが誤りなのだ」と彼が言っているように思えてならないのである。そして同時にどんなに不純でも、どんなに間違っていようとも、どんなに社会的に非難される事柄であろうとも、「脆くて弱いものはたとえ悪であっても常に私は支持する」と語っているように思えてならないからでもある。

 私たちは色々な場面で壁を作ってきた。日本と言う国の存在だって、犯罪を罰するための様々な司法制度だって、社会の決まりや組織や家庭の規律などにも、それなりの壁を作ってきた。そうした作られた壁を人は「ルール」と呼び、その壁に守られることの中に安心であるとか安全を委ねてきたと思うのである。
 もちろんその壁が常に正しかったとどうかは必ずしも保証の限りでない。時にその壁が守るべき住民を逆に疎外することだってなかったとは言えないだろう。もしかしたら「壁」とは権力者を守るためにしろ、はたまた国民を守るためにしろ、法律と同義であると理解してもいいような気さえしてきている。

 だから壁が常に正しいとは言えないであろう。だからと言って「壁」の存在そのものを否定するような論理は、どこかで「権力に歯向かう弱者の雄雄しき姿」みたいなものの象徴として「卵の弱さ」を捉え過ぎているような気がしてならないのてある。弱さは決して正義と同義ではないのだから・・・。



                                     2009.3.6    佐々木利夫


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