政治家の発言には互いに対立していながらも、そのどちらにも「私の声こそが国民の声」みたいな主張がついて回っているから、そんなことにいちいちめくじら立てても仕方がない。だがいつの間にかマスコミにも、更にはいわゆる識者と言うか論者と言うべき人にまでそうした言い方が広がってきているように思えて気になってきている。

 先週発表したソマリア沖の海賊対策に触れた寄稿(別稿「協力の道探れ」参照)にも「・・・政府からすると憲法上『シロ』でも、国民はそう受け取れない部分があります」との記載があったし、宇宙利用に関して衛星監視システムの今後について述べた寄稿にも「・・・今後の宇宙開発や利用、その戦略はどうあるべきか。一部の専門家集団だけでなく、国民的な論議が広がってほしいと思う」(3.21、朝日新聞、慶応大学教授)との記述があった。

 また最近の社説でも民社党の小沢代表にかかる西松建設からの政治献金疑惑に寄せて、「今回の事件では、検察の捜査にも国民は釈然としないものを感じている。・・・だが、もうひとつ腑に落ちないという国民の疑念を放っておいていいものか。・・・国民の厳しい視線にさらされるのは当然だ。徹底捜査はもちろんだが、国民も(検察に)相応の説明を聞きたいに違いない」と「国民」の語の乱発じみた使い方が見られたのも気になった(3.25 朝日新聞朝刊)。

 そしてこれに関連して「小沢代表の資金疑惑は、民主党に対する根拠のない期待を打ち砕いた。国民はそうした冷めた気分で今回の事件を見ているであろう」(朝日新聞、3.26、北海道大学教授)など、少なくとも新聞紙上にはいたるところで「国民」のオンパレードが見られる。

 でも本当に国民はそんな風に思っているのだろうか。仮にそんな風に思っていることが正しい評価だとしても、「国民がそう思っていること」をマスコミや寄稿者はどんな方法で確認したのだろうか。確かに世論調査で民主党の支持率が低下していたり、小沢代表の説明責任は不十分だとの報道はあった。だが「国民が思っている」ことを裏付けるような世論調査結果を示すデータを、少なくとも私は見ていない。

 更にまた、「国民的論議が必要だ」と訴えている寄稿者は、どんな方法を用いることで国民的な論議を巻き起こそうと考えているのだろうか。そしてそうした国民的な論議のなされた結果を、主張者はどんな方法で確認しようとしているのだろうか。

 私にはマスコミや論者のこうした「国民の意見」の採用は、単に取材不足や情報が足りないことに対する自身の能力不足を糊塗するために利用しているだけのことなのではないかと思えるのである。

 例えばそれは最近のマスコミのヤラセ問題からも見て取れるような気がしている。
 日本テレビが報道番組「バンキシャ」で昨年11月に放映した「岐阜県では今でも裏金作りが続いている」とした中で何らの検証もなしに匿名の証言を採用したことが誤りだと分かった事例、テレビ朝日が撮影用に職員が自作したブログをあたかもネット情報であるかのように誤認させるような使い方をしいてた事例、これらはいずれも報道結果があたかも国民の意識を前取りしたかのように装った結果である。

 つまり単なる受け狙い以上にある情報が客観的であること、言い換えるならそうした言い分が国民の声であるかのように偽装していることを示しているのである。

 マスコミや識者が、「私の意見こそ国民の声である」と自惚れたいのはかまわないけれど、だからと言ってそのことを自分独自の意見であることに客観性を上塗りしようとして「国民」を利用することは、発言者の傲慢だと言われても仕方のないことだろう。

 もし自身の意見に対して「国民」を使いたいと考えるなら、まず最初にデータを示すべきであろう。つまり「3.31の〇〇新聞の世論調査によれば、これこれに対するデータはこうであり・・・」であるとか、「私自身が調査した××によるデータによるならばこうであり・・・」など、国民の意思が客観的に推測できるだけのデータを示してから述べるべきだと思うのである。
 そしてある意見に対してまだ国民の意思が確認できない状況にあるのなら、どんな方法で国民の意思を集約すべきかの提言をすべきである。

 たとえその心情がどんなに自認する正義や哲学、更には多くの国民の支持を受けるだろうとの思いに基づくものだとしてもである・・・。


                                     2009.4.2    佐々木利夫


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