政治からも経済からも、「国民が・・・」、「国民が・・・」の声が途切れることなく聞こえてくる。発言者はある意見を国民が望んでいると主張しているけれど、何を根拠としているのかについての言及がないことがどうも気にかかる。「国民の意思をどんな方法で確認したんだ」とのテーマについてはつい先月ここへ書いたばかりだが(別稿「国民の意思」参照)、最近のマスコミ報道を見ていると、政治家の多くがまたしてもこの「国民が・・・」を多用しているもんだから、ついつい頭にきてしまった。

 まあ政治とは言っても、政権与党がこれまでの自民党から民主党に代り鳩山連立内閣が発足したのが9月16日のことだったから、やっと100日になったばかりである。政権交代などこれまでの数十年日本では起きなかったことなので、新米与党としては国民を味方につけないことにはなかなか自分たちの思うような意思決定をすることが難しい事情も背景にあるのかも知れない。そはさりながら、なんでもかんでも「国民が望んでいる」との枕詞をつければ済むというものではあるまい。

 確かに「国民」は使いやすい言葉である。政治も経済も、なんなら上場会社からその辺の焼き鳥店などの私企業の経営理念にだって、「国民のため」などの冠詞をつけることなどたやすいことである。こうした冠詞をつけることで、あたかもその意見が善意と正義を持った主張にものの見事に包まれるような感触さへし始める。しかも、その語を発する人があたかも日本人の代表であり、日本人全体のためには「この方法以外にはない」とまでの思いを秘めているかのような錯覚さえ与えてしまう。

 特に気になったのが、最近の来年度予算要求にからむ民主党の幹事長から鳩山首相に対してなされた要望であった。小沢幹事長は今月16日に首相を訪ね、来年度予算と税制に関する民主党としての要望書を渡した。その会談のなかで小沢幹事長は首相にこんな風に述べたと報道されている(12月17日の新聞各紙)。

 「政治主導でこうした要望について実現するよう最大限の努力をしてもらいたい」、「(これは)党と言うよりは全国民からの要望(である)」。

 そしてこれに対する首相の返事がまた振るっていた。なんとこんな風に答えたのである。

 「国民の声を反映しているご要望だ。しっかり耳を傾けながら最終調整をしたい」

 要望する側はそれを「国民の要望だ」と主張し、受ける側はそれを「国民の声だ」と認めているのである。しかもこうした会話の中や前提に、その内容が国民の要望であることに関してのなんの裏付けも示されていないのである。

 確かに民主党は先の衆議院議員選挙で政権交代を実現するだけの当選者数を獲得した。選挙結果そのものをいきなり国民の総意を貼り付けるのは早とちりかも知れない。しかし選挙以外に国民の意思が確定的に示される場面は他にないのだから、多少の奢りも含めて民主党がその多数であったことを国民の総意だと主張したところで批判するには及ぶまい。そしてそうした選挙の結果が鳩山連立政権として表われたこともまた事実である。
 だとすれば民主党が自党の主張を「国民の声だ」と呼び、民主党から選ばれた鳩山政権がそれを「国民の意思だ」と理受け取ったところで、「選挙結果」と言う事実がある以上それは当然のこととして理解してもいいのかも知れない。

 ところが、民主党が国民の声だと主張している内容は、民主党が選挙公約として作成したいわゆる「マニフェスト」とは大きく乖離していることで明らかに矛盾しているのである。マニフェストの全部が要望に離反していると言うわけではないけれど、マニフェストに目玉商品として掲げた「ガソリンに対する暫定税率の廃止」も「子ども手当ての支給には所得制限を設けない」ことも、ともに排斥された内容になっているのである。つまりは民主党が今回の予算への要望として掲げた暫定税率の維持することも、所得制限を設けるも、マニフェストに反しているにも係わらずともに「国民の要望だ」とされたのである。

 これはどうしたって変である。暫定税率廃止や所得制限を記載した民主党のマニフェストだけが選挙結果に影響を与えたとは必ずしも言えないだろう。だが少なくとも民主党はマニフェストを掲げてこの選挙を闘ったはずである。そして多数の当選者と言う結果を得たのである。私にはマニフェストの記載と当選者数の相関を立証することはできないけれど、マニフェストを党の看板として選挙を闘った以上、そして多数の当選者と言う結果を出した以上、そしてそれによって政権交代が実現できた以上、マニフェストの内容こそが国民の意思だと理解すべきではないのだろうか。
 少なくとも「選挙で多数を獲得した党の意見ならば、それがどんなに政権公約に違反していようとも、新たな選挙で敗退するまではすべて国民の声である」との主張はどうしたって筋が通らないであろう。それを認めてしまったら、「選挙は当選するためにあるんだから、当選した以上それまでの約束なんて糞食らえだ」になってしまうからである。

 前段で選挙だけが国民の意思だと書いた。そのことを否定しようとは思わないけれど、仮に世論調査などで違った意見が多数を占めるような状況があったのならそれも一つの国民の意思として尊重することにやぶさかではない。
 だが今回の幹事長と首相の会話の背景には、そうした国民の意思を示すための裏づけとなるべき何らのデータや根拠も示されていないのである。マニフェストも選挙結果も、既に事実として国民の前にきちんと示されている。ならばどんな根拠を以って、マニフェストに反した事実を「国民の声だ」、それも「全国民からの要望だ」などと言えるのだろうか。

 私だって国民の一人ではある。だがしかし、私は決して国民の全体ではないし、ましてや私の意見が検証なしに「国民の総意」になるはずもまたあり得ないと思うのである。
 「国民は・・・」は、とても使いやすく便利な言葉である。その言葉はあたかも反論を許さないまでに完成された響きと内容を持っている。しかし、裏づけも根拠もないままに使ってしまうと、とたんにその「国民」は薄汚れ腐敗し始め、何の説得力も持たなくなってしまう。ましてや政治は信じられることが唯一の基礎であるにも係わらず、その基礎をないがしろにしてしまうことなのではないだろうか。。

 私は今回の民主党グループの見解が単にマニフェストに反していることを批判したいのではない。国の予算といえども打ち出の小槌でないことくらい誰にだって分かることであり、財源を考慮したうえでの結果だと言うなら国民にも理解されるだろうと思うからである。ただマニフェストに反する結果に対して、それが自らの責任ではなく国民の意見だと豪語していることにどうしようもない不信を感じてしまうのである。そうした信頼から丸っきり乖離してしまっているかのような今回の身内同士の応答は、再び始まるであろう政治の混乱をそれとなく示唆しているようである。



                                     2009.12.24    佐々木利夫


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「国民」の乱発