人は他者を差別する。差別と言う表現は、一方が他方を見下すような意味に使われがちだが、それは間違った理解の仕方だろう。2年ほど前に水俣病患者が近隣から差別を受けたという話題について書いたことがあるけれど(別稿「病気と伝染」参照)、差別は多くの場合差別されていると思い込む側からの主張が多い。それは差別しているとされている側がその行為を自ら差別だと理解していないことの多さからくる当然の結果かも知れないけれど、最近も差別に関するこんな新聞投稿を読んだ。

 「・・・人種差別は、人間の本性によるものではない。生まれたての人間は、他の人間に対して何の偏見も持っていないのだ。偏見や差別は社会の中で育つものであり、恐れや無知に起因する。それらを克服して初めて、相互の尊敬に基づいた真の多文化社会が達成できるのではないか・・・」(2009.6.25 朝日新聞、オピニオンページへの投稿、「人種差別 ひとごとの社会を変えよう」、絵本作家、人権・同和問題講師、ジョエル・アソグバ)

 論者の意見は「赤ん坊には人種差別の意識はない。だから差別意識は社会の中で後発的に発生する」に要約できるであろう。確かに赤ん坊に差別の意識などないことに異論はない。だが論者はそうした赤ん坊が持っている差別のない心を、どこかで「絶対真」だとか「純粋無垢な善」として捉えようとしてることに、私はどこか納得できないものを感じてしまったのである。

 「生まれたばかりの赤ん坊に差別の心はない」ことは素直に認めよう。また「成長するに従って差別意識が芽生えてくる」ことについても敢て反論しようと思わない。ならば「成長する過程こそが差別の根源」であると言うことになるのであろうか。私は場合によってはこのことすらも認めようと思う。
 ただ、そこで使われている「差別」の定義を、論者が人種差別と理解しているような「諸悪の塊り」として構成することは誤りではないかと思っているのである。

 確かに私たちは成長するにしたがって差別を覚えていく。だがその差別は悪の要素だけを持って育っていくものではない。むしろ自らが成長していくための必須の手段として、他者との分別を理解していくのではないかと思っているのである。
 恐らく人が最初に覚える差別は、赤ん坊時代の「人見知り」に始まるのではないだろうか。根源的な意識としての母親とは一体なのかについて私は知らない。しかし一番近いとは言いながらも、母親とても身近な他者ではないだろうか。その他者を自らの保護者として取り込んでいくことは、例えば卵から孵ったばかりの鳥が最初に目にした動くものを親として認識するという、いわゆる「刷り込み」と呼ばれる現象にもその萌芽を見ることができるような気がする。

 多くの生物、そして人もその一種として未成熟で生まれてくる。保護者なしには生存することさえできない全くの裸である。そうした未成熟な自らの子孫を独立した人へと育てるために、人は夫婦であるとか家族というシステムを作り上げたのかも知れないがそのことについてはいずれ別の機会に譲ることにしよう。

 人間の成熟を何歳とするかについては様々な意見があるだろうが、赤ん坊にとってもまず生きていくことこそが基本的な本能である。赤ん坊が多くの人々から「可愛い」と思われ、また意識することとは無関係に笑顔のような表情を見せるのも保護者を得ることで生き延びるために獲得した一つの手段であろう。

 そして人見知りが始まる。保護者と保護者以外の差別である。そしてその差別は家族、近所、幼稚園や学校といった擬似社会、そして社会や国家へとつながっていく。それはまさに例えば誘拐事件が発生したり、胡散臭い男が近くをうろついているなどの情報の下で、家族が我が子に言い聞かせる「知らない人から声をかけられても話をするな」とか「逃げろ」などへと同じ系譜に連なるものであろう。

 もちろんそうした他者との差別を理解していく中で、人は悪意の差別や偏見をも身につけるようになるかも知れない。だがだからと言って「差別」そのもの中に悪が含まれているのではない。
 自らの能力や興味、家庭や社会などの環境・・・、人はやがて自らが他者とは異なることを知るようになる。「私は他人(ひと)とは違う」、「私は私、お前とは違う」。その理解はまさに他者との差別を知ることであり、自らのアイデンテティの確立への一歩が始まる。やがて「私は私の道を行く」ことを自らの意思で選択する道へと人はつなげていくものではないのだろうか。

 冒頭に掲げた投書を読んで共感したとする投書があり、その中でこんなことを経験したとの記載があった。

 「・・・留学のためアメリカに渡ってまだ2週間の頃、・・・ミーティングの際、隣に座った白人の男子学生にいきなり、『死ね、黄色人種』といった意味の言葉を投げつけられた」(24歳、女子大学院生)

 私はこの投書者の体験を嘘だと否定するつもりはない。だが彼女のこの言い分にはどこか唐突なものを感じる。「そんな筈などないだろう」としか思えないほど一方的であるような気がしてならない。何の前提や動機もなしに、いきなり「死ね、黄色人種」の言葉が見ず知らずの他人から投げつけられるとは思えないからである。
 私にはこの言葉が投げつけられる背景には、例えば彼女とその白人男性との間に何らかのトラブルなり、誤解を生じさせる原因があったと考える方が自然だと思えるのである。仮にそうした事実が皆無なのだとしたら、例えば「第二次世界大戦であるとか貿易摩擦などで身近な者が日本人から迫害や被害を受けた」などの遠因が影響しているのではないかと思うのである。

 だとすればその白人男性の発した言葉は、その当否はともかくとして少なくとも「差別」によるものではない。発言の基となった恨みなり憎しみが、仮にぶつけられた彼女個人にとって無関係で理不尽なものだったとしても、彼の口から出た言葉は少なくとも「人種差別」と一くくりにされるような意味を持っているものではないと言ってもいいのではないだろうか。

 私たちは多くの差別の中で生きている。それを「区別」と言い換えたところでその意味が変わるものではない。私の中にだって数え切れないほどたくさんの差別が存在していることは、深く考えなくたって余りにも身近に感じることができる。そうした差別の中で私は時に嫉妬し、時に優越し、あるいは努力し、挫折する。恐らくその中には「隣の小さい子よりも孫の方が可愛い」みたいな卑近な差別から、人には言えないようなおぞましく理不尽な差別も、場合によっては人として許せないような差別まで数え切れないほど多様に存在していることだろう。

 だからこそ人はトータルなのだと思うのである。差別する心があって、それをどのようにコントロールしていけるかの中に、人は自分として生きていけるのではないのかと思っているのである。
 差別は決して悪なのではない。赤ん坊の心は白紙かも知れないけれど、だからと言ってそれを無批判に善や純粋と評価すべきものではない。他者への賞賛や尊敬や感謝などと言った良しと評価されている差別だって、少なくとも赤ん坊の白紙の心にはまだ芽生えていないはずだからである。差別とは「違いを知り、それを行動する過程」なのであり、そうした学びのなかで人が大切に育ててきた人となるための智恵なのだと思っているのである。




                                     2009.7.2    佐々木利夫


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差別の発生