裁判員制度が目の前に迫ってきた。先回ここへ発表したように(別稿「裁判員制度への疑問」参照)、候補者へは既に昨年末具体的に通知がされている。
 こうやって何度も裁判員制度について書いていると(個別の内容については前掲の別稿をクリックしてください)、もしかしたら私は頭では理解しているつもりでも本当のところはこの制度に反対なのかなとも思ってしまう。

 ところで最近気になってきたことの一つに、裁判所側が広報している国民に対するこんな言葉がある。
 それは裁判員候補者からの「私は法律なんてまるで知らないのですが」と言う予定質問に対する、「事前に法律知識を得ていただく必要はありません。・・・判断の前提として法律知識が必要な場合は、その都度裁判官から分かりやすく説明されます」との回答についてである。

 恐らくそれは「法律は専門家のもの」という拭いがたい先入観を払拭するために、「判断に当たって普通の人の持つ力を生かすためにこの制度が設けられたのです」との意思を伝えたいのであろう。基本的に国民全部を対象としてこの制度が作られているのだから、場合によっては法律に無知な人が選ばれることも当然に起きうることだろう。極論になるかも知れないけれど、そうした「法律に無知な人々の意見を取り入れることもまた国民意識に合致した裁判になる」と言うことなのかも知れない。

 そうした意見はそれなり筋が通っているように思えなくはない。世界の各国に陪審員制度や参審制度などと呼ばれる司法に関して素人である人たちの判断を裁判に取り入れている現実を知らないではない。量刑にまで踏み込もうとする日本の裁判員制度がどの程度国際的に評価されているのか知らないけれど、司法が象牙の塔の中だけで行われていることへの反省だと言われることにそれほどの違和感はない。
 だが、裁判員制度は特に重罪と思われる刑事事件に限って適用される制度である。単に懲役刑のみならず無期懲役や死刑までをも取り込んだ重い判断が要求される制度である。

 私たちは長い時間をかけていわゆる「罪刑法定主義」を確立させてきた。それは権力者の恣意的な判断や魔女狩りのようなでっち上げによる刑罰を排除するために血の出るような思いの中で作り上げてきたものであったはずである。
 罪刑法定主義とは「法律なくして刑罰なし」のことである。そしてそれは憲法が「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」(31条)と定める国民固有の侵してはならない大切な権利でもある。
 だから刑罰は法律と分かち難く結びついている。いやむしろ、法律抜きにして刑罰は、考えてすらいけないものとして位置づけられているのではないかとすら私は思っている。そして法律とは何か。単に国会を通過した条文としての成文法に限るものではなく、法の淵源としては「慣習法」、「判例法」、場合によっては「条理」などの不文法にまで及ぶ多様なものが考えられている。

 そうした多様な法律と密接不離の刑事裁判、それも重罪事件について判断する裁判員に向かって司法当局が「法律を知らなくても大丈夫です」みたいな言い方をするのはどこか変だと思えてならないのである。
 私は税務職員として長い間法律に関わってきた。それは税法と言う限られた分野の中でのことでしかなかったし、それは行政法として他の刑事、民事とはまるで異質な領域ではあった。それでもある経済効果が課税される利益になるかどうか、必要経費や損金になるのかどうか、利益になるとしてもそれはいつの年分なのかなどなど、判断には常に事実の認定とそれを適用するための法律たる税法の根拠が必要であった。
 そしてその場合に刑事訴訟法が定める「事実の認定は証拠による」(317条)は、単に刑事事件のみならずどんな法律判断についても必須の要件ではないかと私は日頃から考えていた。そして今でも・・・。

 さて裁判員に求められることは基本的に、@犯罪事実の認定、A認定した事実の法律へのあてはめ、B有罪の場合の刑の種類と量の決定、の三つであろう。
 そして事実の認定といえども耳に入ったすべてに証拠としての価値が認められているわけではない。自白の採否(刑訴法319条)、伝聞の排除(同320)、違法収拾証拠の排除(明文の規定はないが適正手続きからの要請として判例上確立されている。前掲憲法31条が根拠との説もある)などなど、目の前に表われた事実を判断の基礎たる証拠として採用するかどうかもまた法律がからむ悩ましい事柄である。

 そうだとするならば、裁判員に法律の無知など許されてはいけないのではないだろうか。法律知識について無知であることの補完を最高裁の質疑応答にあるような「裁判官が分かりやすく説明する」ことにあっさりと委ねてしまっていいものなのだろうか。

 どこまでの知識を持てば「無知でない」と言えるのかどうかは答えの出ない問いになるかも知れない。それでも私たちは司法に対する信頼を、これまで「司法試験合格とその後の司法修習」と言う日本で最も難関と言える制度の中に求めてきた。象牙の塔にこもることが法律を理解する唯一の手段だとは思わないけれど、それでも研ぎ澄まされた法律知識はそれにふさわしい努力と研鑽の中にこそ具現するのではないだろうか。

 そうした思いは今回の制度であっさりと外されようとしている。「国民参加の司法」という掛け声はいかにも正論に満ちているかに見えるけれど、そうした輝きの中に私たちはどこか大切なものを忘れてしまっているような気がしてならない。
 そうした危惧の一つに「私刑(リンチ)」の復活につながるのではないかとの思いがある。映画の、それも西部劇の首吊りの木や魔女狩りの火あぶり程度のお粗末な知識でしかないけれど、「民衆の声」は時に情緒や気分や一時の感情に流されやすいのではないだろうか。事実を冷静に認定し、冷徹に法律を当てはめる、そんな重い役割を果たして「法律は知りません」などと自称する人たちに委ねてしまっていいのだろうか。それが本当の「国民の司法参加」になると言えるのだろうか。法廷を利用した私刑の場になる恐れはないのだろうか。

 もちろん判断は裁判員のみが行うものではない。有罪の認定には「構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の過半数」が必要とされているから、どちらかに無罪の判断が一人でもあれば結論は出せないことになる。つまり裁判官だけとか、反対に裁判員だけと言う一方だけの意見で有罪にすることはできないシステムが講じられている。
 だが専門家である裁判官と「法律なんかよく分からないんです」と自称する裁判員、そして「法律知識は裁判官から分かりやすく説明されます」というシステムの中で、私たちがこれまで営々と努力して築き上げてきた罪刑法定主義がきちんと守られ、信頼できる司法の構築がなされていくと信じていいのだろうか。

 こうした法からの乖離は、場合によっては起訴した検察の有利に働くかも知れないし、弁護側が狙っているとも言われる情実重視の方向へと機能するかも知れない。ただどちらにしても私には、こうした「法律を知らない人たち」による判断がね罪刑法定主義から「情による判断」へと流れていくのではないかとの不安を誘うのである。

 人が感情に流されず真っ直ぐな気持ちで事実と向き合うためには、それなりの訓練が必要なのではないだろうか。そうした訓練を司法修習期間の長短や数多くの裁判に担当者として向き合う機会の多さなどに委ねてしまっていいかどうか、現行の専門家による司法制度にも問題はあると思う。
 だがしかし、多くの場合「司法に携わる機会が一度きり」であろう一過性の裁判員に、真っ白な目で事件を見据える力を求めること自体、私にはないものねだりのような気がしてならないのである。

 冒頭に掲げた写真は旧札幌控訴院(現在は札幌市資料館)の門に彫られている像である。目隠ししたその像は外部からのいかなる影響にも惑わされないとの思いが込められている。裁判員は果たして目隠しの意味をきちんと理解し、覚悟できるものなのだろうか。求められるのは「バランスの取れた判断」や「大岡裁き」などではなく、「証拠と法律に基づいた判断」なのだから。



                                     2009.3.12    佐々木利夫


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