11月28日裁判員候補者への通知が、全国一斉に始まった。最高裁の発表によると候補者数は全国で29万5千人、有権者312人に一人の割合になるそうである。
 裁判員制度についてはこれまでに何度もここへ書いたから(別稿「リンドバーグ事件」、「執行されない死刑判決」、「人を殺す気持ち」、「死刑廃止と裁判員制度」参照)、具体的な内容については書かない。これまで私は国民が立法、行政を超えて三権分立の最後の分野である司法にまで関与できるこの制度について、多少の煩わしさはともかくとして肯定的に捉えていた。むしろ積極的な賛成論者であると言ってもいいとすら思っていたし、そうした気持ちについては今でも変わらないつもりである。

 ただ具体的にこうして国民に通知されるようになってきて、ふとどこか納得できない部分があることに気づいてきたのである。

 1 罰則の適用

 裁判員にはその候補者も含めて様々な制約があり、中には罰則の適用を背景にしたものもある。具体的にいくつかを掲げてみると、次のようなものである。

 @ 召喚を受けた裁判員候補者、裁判員、補充裁判員が正当な理由なく出頭しないとき、または宣誓を拒否したときには過料が課される。
 A 裁判員は職務上知りえた秘密や事実の認定、刑の量定などを関係者以外にもらしたときには懲役または罰金が課される。
 B 裁判員候補者が正当な理由なく質問に答えなかったときは過料に処せられ、虚偽の回答をしたときは罰金が課される。

 私はこうした罰則の軽重や範囲などについてとやかく言いたいのではない。そうした制約や制裁が必要な場合のあることはよく理解できるし、量刑などのバランスについてもそれを論じるだけの知識を持っているわけではないからである。
 また、過料がいわゆる行政罰、秩序罰であって刑事罰たる罰金や科料と性質が異なるものであることについてもその区分の適否について論じようとも思わない。

 ただ裁判員として司法に参画することを罰則(一応過料も含めての話である)をもって強要するようなシステムにどこか納得できないでいるのである。
 この制度の広報によれば、国会議員への立候補や候補者への投票などを通じて国民は立法に参画することができ、知事や市長などに立候補することで行政へも自由に参画できるのに対し、司法にはこれまで参画できる制度がなかったことをあげている。行政への参画といえば公務員になることも就職試験と言う選抜手続きはともかくとして国民に平等に開かれた道であると言えるし、私が高校を卒業して定年まで税務職員として働いていたことも行政官としての参画だったと言えるかも知れない。

 だからと言って今回の司法への参画として裁判員制度があるのだとの理屈とはどこか食い違っているのではないだろうか。立法、行政、司法が三権分立として恐らく世界の人々を支える基本的な考え方になっていることを否定したいとは思わない。私自身こうした国民の司法への参画を肯定的にとらえていたのだから・・・。

 だがこの裁判員制度への参画に、国民自らが選択する道を閉ざしていることは他の立法や行政への参画と基本的に違っているのではないだろうか。
 私たちは選挙権が停止されているなどの特殊な場合を除いて自らの意思で自由に立法や行政に関与することができる。しかしそれは国民としての権利であって、決して自らの意思に反して強制されているものではないはずである。

 もちろん選挙で自らの一票を投じることは、国民として必要な行為である。参政権はまさに最も基本的な人権を形作っているといってもいいだろう。だがその行為は「投票に行かなければ罰金が課されること」でも、「首に縄かけられて投票箱の前へ連れていかれること」でもないはずである。行くか行かないか、特定の候補者の氏名を書くかはたまた白紙のままで投票するかも含めて、決して罰則で強制される行為ではないはずである。

 裁判員制度にももちろん「正当な理由がある場合」とか、「止むを得ない理由がある場合」などには辞退できるようなシステムが存在している。
 しかし、選挙権や被選挙権など立法や行政への参画にはそうした制約は始めから付されていないはずである。例えば仮に他人の家に空き巣に入っていたので投票に行けなかったり、ただなんとなくその気になれなくて知事選挙に立候補しなかったとしても、そしてそのことがきちんと立証されたとしても、行かなかったことや立候補しなかったことそれ自体で罰則が適用されるわけではない。

 ところが裁判員は違うのである。一番の基本となる「裁判員になりたいかどうか」を選ぶための入り口がそもそも国民には最初から閉ざされているのである。ここを放置しておいて裁判員制度が三権に対する国民の平等な参画の一翼を担っているのだとは私にはどうしても思えないのである。

 2 二審・三審への不関与

 裁判員制度は一審における参加に限定されている。もちろん裁判は最高裁までの三審制は基本的に維持されているから、一審の判断に納得のいかない検察側や被告人は当然に控訴、上訴が許されている。ただしそうした時、裁判員はそうした上訴の場面に関与することはできないのである。

 裁判員制度は司法が専門家集団による判断のみに委ねられ、国民としての意識が反映されていないことの反省から生まれたものである。
 だが、裁判員がどんなに真摯に事件に向き合って司法に関与し判断を示したとしても、その結論について検事なり被告なりが不服として控訴した場合、それ以降の判断はこれまでと同じように専門家集団による国民不在の判断に委ねられてしまうということである。

 もちろん一審における裁判員の関与した判断を、控訴審も上訴審も基本的に尊重するような考えを持つかも知れないけれど、逆に言えばそうした過去の判断に拘束されないことが三審制の持つ基本になるのではないのだろうか。
 現行司法における国民不在による弊害の解決を裁判員制度に求めるのであるならば、三審制のすべての判断について国民の参画を認めるのでなければ片手落ちの謗りを免れないのではないだろうか。

 3 裁判員の解任

 裁判員6人の選任は裁判所3人(当該裁判事件の裁判官及び陪席裁判官)が行うが、選任後も裁判所は裁判員が裁判所の命令に従わない場合などには解任ができることになっている。
 もちろん裁判官についても事件関係者との利害関係などを理由とする除斥や忌避の制度が法律的に認められている。
 ただ、裁判官の忌避については非常に厳格な理由が求められており、現実としてその申し立てが認められることは極めて少ないと聞いている。しかも裁判官の解任には国会による弾劾裁判という厳格な手続きが必要とされているのである。

 だが裁判員は裁判官と対等の立場にあると言われながらも、その解任は裁判所の判断のみに委ねられており、それに対する不服制度についてはなんら説明されていない。それでなくても裁判官は法律の専門家であり、どうしたって法律的に無知な裁判員による審理の方向をリードしやすい立場にある。しかも裁判員制度は重度の刑事裁判であっても基本的に審理を短期間(一説には2〜3日と言われている)でしなければならないのである。これで果たして裁判官と裁判員との対等性がきちんと保証されていると言っていいのだろうか。



                                     2008.12.11    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



裁判員制度への疑問