ここ数週間の帰り道、18時を過ぎた南西の空に一段と輝いているのは宵の明星だろうか。冬の間中、真っ暗の中を帰っていたのに、いつの間にか薄暮の残る時間帯になってしまっている。南天の空からあれほどしっかりと背を押してくれていたオリオンも、三ツ星の姿こそ僅かに認められるけれど星座全体を確認するのは難しくなっている

 地球から眺める星座は巨大な天球のキャンパスにぺたりと張り付いて見えるけれど、例えば天の川は銀河を縦に輪切りにした形を見ているのと同じように、その形作っている個々の星までの距離はまちまちである。
 それでも見た目には無数(とは言っても肉眼で見える星の数は6千個くらいだと言われている)で無秩序な配列の中から、いくつかの星を線で結んで人々は星座を作り上げた。

 我々の耳にする星座は日本からは見ることのできない南半球も含めて、国際的に決められた88個からなっているそうである。この星座はそれぞれ天空に占める面積も形もかなり好き勝手に決められていて、重複する領域はないけれど、まるで戦争で獲得した領土みたいに自由な線引きで構成されている。そうした区画は星座を作り上げている星々のすべて含むように星座としての領域を決めたことにもよるのだろうけれど、その領域に隙間がないと知ったのは多少驚きであった。つまり空はすべてきっちりと88個の星座の占める領域で隙間なく仕切られており、空白の場所は存在しないと言うのである。だから天のどこかに未発見の彗星が現れたとしても、その位置は必ずどれかの星座の領域に属していると言うことである。

 星座の由来を私は必ずしもきちんと知っているわけではない。中国にも固有の星座名があるし、日本にだって北斗七星や昴(すばる)などの呼称もあることだから、もしかしたら地球上の民族はそれぞれに固有の星座名を持っていたのかも知れない。夜空の星のランダムな配列、そして光り方もそれぞれに異なる点を特定の線で結んで一つの形を作り上げることは、その映像観はともかく恐らく夜空を見上げる世界中の人間に共通する思いだったのかも知れない。

 ともあれ国際的に通用する星座はギリシャ神話になぞったものが多いような気がする。それだけギリシャ神話には映像を想起させるような力が含まれていたと言えるのかも知れない。星座のすべてがギリシャ神話に由来しているのかどうかについて、私は全くの無知である。
 ただそれでも、ヘラクレスの脚を切ろうとして踏み潰された「かに座」、同じくヘラクレスに殺されたライオンの「しし座」、正義を忘れた人間に失望して天に昇った女神アストライアの「おとめ座」、そのアストライアが持っていた正義を計るための道具の「てんびん座」、そしてヘラの怒りに触れて「さそり座」に殺された「オリオン座」(別稿「アンタレスの赤」参照)の物語などなど、星座名の多くがギリシャ神話に結びついていることは事実であろう。

 ギリシャの人々は夜明け前から働き始めたけれど、午前10時くらいまでで仕事を終え、残る時間はゆとりに使っていたとの話しをどこかで聞いたか読んだことがある。彼等は「働く」ということをどんな風に考えていたのだろうか。今から2500年も前の出来事でありながら、彼等の哲学も文学も衰えることなく現代を生き抜いている。その様々について私は理解するだけの力をまるで持っていないけれど、直接民主主義とも言える一応完成された社会規範と生活の豊かさを持っていたこの国の人々の姿に、ふと現代の民主主義を重ねてしまう。

 人は2500年を使って、本当に進歩してきたのだろうか。コンピューター万能の目まぐるしい社会と、飢餓や殺戮に追われる多数の人々の暮らしが並存している今と言う時代とが、どこかでミスマッチしているような現実を、私たちは何の矛盾も感じないかのように平然と受け入れている。

 残念なことに私にはどうやっても大熊座はひしゃくの形にしか、カシオペア座は英大文字のW程度にしか見えなくなっている。そのほかの星座にだって星図版でも参照しない限りそこにギリシャ神話の映像などを思い描くことはできない。別に私を人類の平均値だと気取るつもりはないけれど、私たちにはもう星座を作る力などとっくに失われてしまったのだろうか。



                                     2009.3.17    佐々木利夫


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星座を作る力