臓器移植法の改正を巡って世の中が一段と騒がしくなっている。現行法の内容についてはすでにここで発表したところだが(別稿「脳死と死と命」参照)、その改正案がつい先日衆議院を通過し、参議院で更に二つの改正案が追加されて三案で議論された。その結果参議院でも衆議院と同じ案が成立したのでこれで改正法は衆議院通過どおりの内容で改正された。

 ここでは「脳死」について、現行法の「臓器移植に限り人の死とする」との考え方と、衆議院を通過した改正案の「移植とかかわりなく人の死とする」との考え方、そして参議院での追加改正案たる「臓器移植に限り人の死とする」として揺り戻されている人の死について考えてみることにしたい。

 今回改正された規定(改正法と呼ぶ)は、現行法の「15歳以上の本人による承諾」の要件を外し、脳死の要件を臓器移植の場合に限るとの要件も外したものである。つまり改正法はまず年齢制限をなくして臓器移植の判断を親族の承諾に委ね、さらに人の死の判定要素を一律に脳死としたことがあげられる。

 ところで成立しなかったのだからここで取り上げても意味がないのかも知れないけれど、参議院での修正案の一つはこうした一律に脳死を死とすることを、「臓器移植に限り」との条件へ戻そうとするものである。追加されたもう一案は、「人の死」についてもう一年かけて皆で議論しようとするものなので、ここではとりあえず取り上げないことにする。

 さてこの二案はどこが違うかをもう少し具体的に見てみよう。
 旧法は「15歳以上の本人の承諾、その上での親族の承諾、そして臓器移植に限り脳死を死とする」を基本としていた。
 これに対し改正法は「15歳の要件を外し、移植の判断を全面的に親族に委ね、一般的に脳死を死とする」ことにある。
 そして参議院で提示された修正案は「改正法の要点を踏襲しつつ、脳死を死とするのは臓器移植の場合に限る」案と、もう少し議論を重ねようとする二案である。

 さて参議院で提案された案では、死の判定が「脳死」と普通の死(一般的に呼吸や心臓の停止を言うので、ここでは仮に「心臓死」と呼ぶことにする)の二つに分かれてしまっている。改正法はすべての死を脳死と結び付けることにしてしまうことで結論付けたけれど、必ずしもそれで議論が治まったわけではない。

 朝日新聞は社説で、「・・・最大の懸念は『脳死は人の死』が前提とされていることだ。・・・政府は法の適用にあたって、この定義が移植の場合に限られることを明確にすべきだ」と提案している(7月14日)。しかもこの改正法の成立の裏には、翌14日に麻生総理大臣が衆議院の解散を予告し、それに呼応して民主党は参議院に麻生総理大臣に対する問責決議を提出して以後の国会審議を前面ストップするとしていたことから、「政局に巻き込まれて、無理やり結論を出さなければいけなくなったことは大変残念」(森ゆうこ衆議院議員・民主 朝日7.14)とする意見や、「命にかかわる重大な法案なのに、政争の道具というよりも、おもちゃ、として扱われた」(全国交通事故遺族の会副会長 7.14)などの意見があるなど、本当に命をきちんと見据えての改正法論議だったのかは疑わしい状況にある。

 ともあれ改正法の成立により、臓器移植に係わらず脳死が人の死とされることになった。死に対して私たちは無意識に一つの観念を持っている。それはもしかしたら民族であるとか、家族や社会のなかで他律的に決定付けられた意識なのかも知れないけれど、人工呼吸器によるものにせよ、動いている心臓、呼吸する肺、温かい体・・・、外見にもせよそうした見かけとのギャップに人はどこまで耐えられるだろうか。

 脳死を死とする判断はそうした人の死生観に影響を与えるだけのものではない。介護や医療や終末医療の判断など、私たちの身近な問題へも直接影響を与えてくる。
 病院の治療は生きている者への治療である。死の定義を生への不可逆性に求めることは、恐らくすべての民族にとって共通する意識だろう。健康保険だって、医療器具だって、医師の役割だって、生きている者を対象にしている。脳死が死であるならば脳死者は死体でしかない。死体に治療や介護の必要はない。脳死が死ならば、たとえ心臓が動いていて家族がその死体を生きていると信じているとしても治療は中止され、生命保険金は支払われることになるはずである。

 だからと言って私は臓器移植に限り脳死を死としていた、改正以前の法的要件に賛成したいというのではない。ただそうした死に二種類を認めることは、時に死者が生き返るという、とんでもない問題を起こすような気がしてならないのである。

 本人の臓器委嘱に対する承諾の意思は確認された。親族も納得して臓器移植を承諾した。脳死判定委員会も正式に患者を脳死と判定した。これでこの体は死体である。移植の要件はそろった。患者から心臓を取り出すべく、今まさにその体にメスが入れられようとしている。その瞬間、病室の外から両親が涙ながらに絶叫する。「私たちの息子はまだ死んでいない・・・。どうか娘の体を切り刻むのだけは止めてくれ・・・」。はたまた、脳死と判定された死者の恋人や友人が病室の窓を叩く。「彼は生前、移植はしたくないと私に伝えていた・・・」

 そうした叫び、つまり本人なり親族の意思表示の撤回がどこまで、そしていつまで有効なのかについて私はまだ寡聞にして知らない。たがそれでもその瞬間に何かが変わるはずである。少なくともその解剖台上の死体は、純粋な死体という位置から少し外れるはずである。両親や恋人の叫びがメスを持つ医者の耳に届いた瞬間に、彼はメスの動きを止めるだろう。改正法でも本人に移植拒否の意思がなかったことや親族の承諾が要件とされているのだから、その叫びが有効ならば移植の前提が欠けることになる。もしその声が少しでも影響を与えるとするならば、台上の死体は突然脳死者でなくなる。目の前の死体は臓器移植のために死体とされたのだから、臓器移植の前提が崩れたとたんに死者は死者でなくなるのである。死体は突如として生き返るのである。

 それとも脳死判定委員会が脳死を判定したのだから、一度決定した判定を後発的に覆すことなどできないのであろうか。だとするなら、現行法で脳死は死なのだからその体は死体であり、しかも臓器移植だけはできないという中途半端な状態に置かれるのであろうか。それとも、もう一度本人の拒否の意思や親族の同意を確認するまで、脳死判定は留保されることになるのであろうか。

 改正前の法律は、15歳以上の要件はあったけれど臓器移植に対する本人の確実な意思表示が要件とされていた。本人の望んでいた移植なのだから、一般的に一度賛成した親族がその意思を翻すことは考えにくい。だが参議院での改正案は、本人の意思確認の手続きをなくした上で、臓器移植に限り脳死を死とするような案を提示した。もちろんこの案は成立しなかったのだから矛盾は生じないことになったのかも知れないけれど、本人の意思を要件としないことにしたことで、こうした生き返りの問題は更に現実味を帯びてくるような気がしたのである。
 生き返った死体はもはや死体ではなくなったのだから、切り刻むことは殺人である。いやいや、人工心肺を停止する行為すら場合によっては殺人になるかも知れない。

 それとも今回成立したのは臓器移植法の改正なのだから、「死の判定」もまた臓器移植に限定されたものとして解釈すべきなのだろうか。例えば医療や介護や刑事法廷などにおける「死」などとは別個のものとして捉えるべきなのだろうか。だとすれぱ「死」はそれぞれの異なる分野で異なる判定によるものとして理解していかなければならないのだろうか。死者はそのたびに死と生の間を行ったり来たり彷徨うのだろうか。

 こうやって考えていくと、脳死と心臓死の問題はなかなかどうして一筋縄ではいかないような気がしてならない。人、特に親族が身内の死に対して抱く死生観は、もしかすると法的には割り切れないのかも知れない。やはり私の気持ちは冒頭に掲げた別稿の考えに戻っていくのである。

 私としては改正前の法律のように、本人の意思が確定的であること、そして家族の同意が摘出直前まで変わらないような厳格的な要件の下でのみ「脳死は死」であることを認めるべきではないのかと思っているのである。もちろんそれによって移植を必要とする者の望みが叶えられる機会は少なくなるかも知れない。
 だがしかし、こんな言い方は冷たいと思われることを承知の上でだけれど、それでもいいのではないかと思っているのである。もっと極論を言うなら、臓器移植は提供する側(親族も含めた)の一方的な考えだけで決めることでいいのではないか、提供を受ける側のどんな切羽詰った状況も完全に考慮外としてもいいのではないかとさえ思っているのである。

 法律用語に「一身専属」というのがある。例えば医師や弁護士や人間国宝などの個人に付与された資格や地位などのように、一種の価値を持つ権利ではあるけれど売買だとか贈与・相続などの対象とはできないものを指す。「命」や「自分の臓器」などもまた「他人に渡したり相続したりすることのできない一身専属性をもつもの」に準じて、狭く狭く解釈していくことが命や生に与えられた本来の死の意味になるのではないだろうか。

 確かに脳は人を人たらしめている大きな要素かも知れないけれど、脳が死んでも心臓が動いていることとか、これはどこかで聞いた話の受売りなのだが、免疫システムなどは脳の指令とは無関係に機能していることなどは、脳死と死の結びつけに「ちょっと待てよ」みたいな気持ちを抱かせる。脳の死と人の死とはかなりの部分重複していることは否定できないとは思うけれど、単純にイコールで結びつけてしまうのは少し早過ぎるではないだろうか。



                                     2009.7.15    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



生き返る死体