WHO(世界保健機関)による勧告はとりあえず延期されたようだが、臓器移植の対象たる臓器の調達は自国で行うべきだとの意見が国際的に強くなってきている。そうした背景には移植される臓器そのものの不足があり、そうした需給のアンバランスの中から国際的な市場まがいの組織まで出来つつあるとも言われるような現状がある。

 それに加えて特に日本では、臓器提供には提供する本人の書面による意思表示が要件とされることになっていることから(臓器の移植に関する法律、以下「臓器移植法」と言う。第6条3項)、更に臓器の調達が困難になっているとの指摘がある。
 この本人の意思表示を有効とする年齢について、臓器移植法は特に基準を設けているわけではない。ただ平成9年10月8日付けで厚生労働省(当時の厚生省)が各都道府県知事及び指定都市・中核市の市長あてに発した「臓器移植法の運用に関する指針(ガイドライ)の中で、「15歳以上の者の意思表示を有効なものとして取り扱うこと」と通知したことが現在の事実上の基準になっている。

 つまり15歳未満のいわゆる子供であるとか乳幼児には、自らの臓器を移植のために提供すると言う意思表示の権能を認めなかったのである。一律15歳の基準で割り切っていいのかどうかは議論のあるところではあるだろうが、この年齢は自力で遺言を書けるかどうかを定めた民法の規定(第961条「満十五歳に達した者は、遺言をすることができる」)からきているものであることは上記指針でも明確に示されている。

 こうした経緯から、日本には臓器提供そのものを承諾する権能を認められていない「15歳未満の者の移植できる臓器」は存在しないことになったのである。一方、臓器移植でしか治療方法がないとされる患者は年齢に無関係に存在しているから、自分の体格などに見合った臓器を必要とするいわゆる子供患者に対する臓器の入手は必然的に海外へと向かわざるを得ないことになったのである。

 そんな状況の下でWHOでは「臓器の調達は自前、つまり自国で賄え」との勧告を出すような動きが見られてきた。こうした勧告の背景には、自国内でも臓器が不足し始めていることに加えて、国によって臓器売買禁止の実効性が乏しく密売が黙認されているとか、結局裕福な者への移植が優先されるなど、貧困や飢餓にあえぐ人々への人権無視に結びつくようなケースの発生を阻止できないことなどがあげられている。

 国連がどう言おうと、法律がどう禁止しようと、そうした宣言によって臓器移植の必要な患者の減少が起きるわけではない。そこで日本で考えられたのが臓器移植法の改正、そしてこの「15歳」と言う年齢制限の見直しである。
 国会でも様々議論されているようで、まだ法制化はされていないものの制限年齢の引き下げ、親権者のみによる承諾の有効性などが議論されているようである。

 そうした時に必ず出てくるのが「脳死」である。臓器移植とは、「臓器は生きているけれど、人としては死んでいる」ことがそもそも前提となる。つまり、「生きていることと死んでいること」の両方が同時に成立しなければならないという点が、臓器移植の一番の問題になるわけである。
 そして「脳死」を「死」とすることで臓器の生存と区分することが一つの判断基準として問われることになってきたのである。しかもそうした判断は、医療というか科学としての「死」と法律的な「死」との分断を新たに生み出すことになり、ここへ更に生き残った者の心の問題が絡んでくることになったのである。

 慶應義塾大学法科大学院教授の井田良(まこと)氏は、「法的に『死』を定義することは、どの時点まで人として法的に保護されるのかを見極めることです」と述べる(朝日新聞、’09.05.10)。そのことに異論はないし、これに続けて「現在の『臓器を提供するときだけ脳死が人の死(それ以外は心臓死が人の死)という定義は、法的に整合性がとれていません」にも納得できるものがある。

 だが「法的に・・・」という枠組みがついているけれど、この考えにはどこか落ち着かないものを感じる。人が人の死を理解し受け入れるのは、決して「法的」ではないと思うからである。臓器移植で脳死を死と考えるかどうかの問題は、例えば自殺や自殺幇助にしろ、嘱託殺人にしろ、更には不作為による治療放棄などによるにしろ、そうした脳死を死と承認する、またはした行為の行為者を法的に罰するかどうかの問題ではないと思うからである。

 私の中では、「死は一つの納得である」とする考えからどうしても抜け切れないでいる。そして「死の納得」とは、決して法的な死や科学的な死を意味するのではなく、「不存在に対する承認への時間の長さ」なのではないかと思うのである。

 「生者は目の前から去ったのではなく、死者として新たに生まれたのだ」(小川洋子、博士の本棚P60、新潮社)との思いも、生き残った者が死者を長く弔い続ける風習も、「まだ私の子供は死んでいない」と言い続ける親の嘆きも、つまるところは「不存在への承認がまだである」ことに起因しているのではないだろうか。

 人は死ぬ。このことは誰しも疑うことすらないけれど、死の事実と死の承認とは、それが己の死であろうが他者の死であろうが、別異な次元で捉えなければ解決しないのではないだろうか。
 「個の誕生」とは生命を得たことのみではなく、それは同時に「死」そのものをも生み出したことを意味している。なぜなら「その人の誕生」なくして「その人の死」もまた存在し得ないからである。

 臓器は確かに一つの財産である。どんな議論から発生したにしろ、結果として目の前にある「移植可能な臓器」はそのまま価値ある財産である。だが私は、「・・・得られた臓器は自国民に還元するのが筋でしょう」(ノンフィクション作家、中島みち、上記朝日新聞同欄)とする意見には、どこかついていけないものを感じる。死を見つめることができるのは恐らく人間だけであろうし、死の認識には個としての生者の存在を我が身に引き継ぎ終わることを意味しているのではないか。それが死そのものの裏側に生と一体のものとして離れがたく結びついているのではないのだろうか。

 科学の発達は「他人の臓器を我が身に移植する」ところまで技術的に進んでいることを否定したいとは思わない。また、臓器移植をしなければ確実の死を迎える幼児を含めた多くの患者の存在を否定したいとも思わない。そして様々な議論はあろうけれど、「目の前にある移植可能な臓器の存在」そのものもまた現実のものであろう。

 そわさりながら、臓器移植をめぐる様々な議論のなかには、どうすれば臓器移植の拡大を図ることができるか、どうしたら生き残れる命を一つでも多く救えるかという方向だけが強く表われていて、例えば「臓器移植絶対反対」と言う立場からの意見が一つも表われてこないことに、私はどこか不自然さを感じてしまうのである。
 臓器移植に対しては私もこの場へいくつか意見を発表してきた(別稿「ドナーカード」、「発生生物学」、「臓器移植に抜けているもの」参照)。絶対反対とは思っていないのだが、だからと言って最近の脳死を再定義しようとする動きにはどこかで、真っ向からの反対意見も聞いてみたいような気がしてならないし、またそうした意見があるならそれもきちんと載せるのがメディアの努めではないかと思っているのである。

 「今すぐ臓器提供がなければこの子の命はないのです」、そう主張していたいけない子供の姿を人質にとるような議論の仕方は、「移植できる臓器」をその子に重ね、利用しなければ廃棄されてしまう途方もなく無駄な資源になるとの偏った脅迫を突きつけているような気がしてならない。
 科学的な死、そして法律的な死は、死者を「生きている臓器を内包している物体」とする割り切りとはまるで別次元に存在しているのではないのだろうか。そして、そこのところをきちんと整理していかないと、臓器移植はいつまでたっても中途半端なままになってしまうのではないだろうか。



                                     2009.5.20    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



脳死と死と命