事務室内で水だけで育ててきたサツマイモだったが、とうとう終焉の時を迎えた。サツマイモの芽出しを目論んで水栽培を試みたのは去年の夏の盛りの7月始めだった(別稿「さつまいも水栽培」参照)。
 その経過をここに書いたのは8月で、その時の茎の長さは70センチくらいだった。それがどんどんと伸びていって、天井へとどくまでになり、仕方なく机からカーテンレールに張った支柱代わりの糸を更にカーテンレールから天上へと横に這わすことにした。最初はカーテンレールから一メートルくらい離れた場所にピンを刺してそこまで這わすことにしたのだが、それでも成長は止まずに部屋の中央くらいまで4メートルもの横糸を張った。

 透明な瓶での栽培だったからその時々の水位はすぐに分かることもあって、水遣りを忘れることはなかった。茎の成長は私の張った横糸に沿って自らの命を誇示するまでになった。7〜8センチおきに葉がついてきて、伸びていく先端からも次々と新しい葉が吹き出していった。

 そうした成長があまり目につかなくなってきたのは11月に入ったころからだったろうか。細い茎ながら根元のほうはけっこうしっかりしてきて、茶色に変身したその姿は立派な蔓と言ってもいいくらいになってきた。それでも蔓は蔓であり、それだけのことであった。サツマイモの花の姿を私は知らない。ジャガイモも種類によって花の色が違うから、このベニアズマにも固有の花の形や色があるのだろうけれど、それらしき気配をまるで見せることなく茎は伸び続け、やがて成長が止まった。

 ジャガイモの実は地下茎だけれどサツマイモは根だと、むかし授業で教えられた記憶がある。だが、瓶の中で混乱した糸のように張り巡らされている根にも特にそれらしき変化は見られなかった。もちろんそれはそうだろう。植物だって生殖で子孫を残していくのだから、花が咲きそのめしべに受粉があってはじめて実を結ぶための指令が根へと伝えられるであろうからである。花をつけることのまるでなかったこの植物に、結実のための指令など与えられなかったのは当然のことである。

 そしてそんな状態のまま12月に入り、部屋の中はそれほど寒くないはずであるにもかかわらず葉は一枚一枚黄色に変色して床の上へと落ちてくるようになってきた。それでも先端の数枚はまだ新芽を出す力が残っていることを誇示するかのようにおずおずと新しい小さな葉を懸命につけていった。そうしているうちにみるみる途中の葉は落ちていき、やがて先端の4〜5枚を残すだけの丸裸になった。

 「最後の一葉」はO・ヘンリーの著名な掌編小説の一つだが、やがてそれを髣髴とさせるように私のサツマイモの蔓も先端の一枚を残すだけになって、やがて終焉の時を迎えるであろうことを知らせていた。正月を過ぎて間もない頃であった。残る4〜5枚の状態から一枚になる過程には毎日の水遣りすら何の効果も与えることはなかった。最後の一葉が黄色くなったと気づく間もなく、突然翌朝にはしなびた枯葉がしがみついているだけになっていた。

 まだ茎の全部が枯れてしまっているわけではないから、このサツマイモの全部の命が途絶えたわけではないだろうけれど、それでも一枚の葉もない蔓だけが今は萎びてしまっているかつてのサツマイモの芋本体から長く突き出ているだけであり、それも先端の葉が枯れてからは茎そのものにまで枯渇が広がってきている。

 全長2メートル55センチ。これがわたしの気まぐれの成果である。このサツマイモはもともと私の食料であった。食べてしまえば半年以上も前に我が腹に収まって跡形なく消えてしまったであろうサツマイモである。たまさかの気まぐれがその芋を半分に切って水を張った皿の上に置いた、きっかけはただそれだけのことである。

 この成長をサツマイモが生き延びたと感じていいものなのかどうか必ずしも自信はない。たかがサツマイモである。根が伸び芽が伸びていく過程を「命」と呼んでいいのかどうかすら、私には分からないでいる。そんなこと言っちまったら、私がこのサツマイモを食べること自体に「命を奪う」との意味をつけなければならないことにもなりかねないからであり、それはまさに米一粒、魚一匹など毎日食べる様々な食事にまで連なることでもあるからである。

 だからそんなに深刻に考えているわけではないのだが、それでも私のほんのちょっとした気まぐれがこのサツマイモをここまでにしてしまったことだけは否定できない事実である。
 サツマイモに意識があるわけではないだろうから、皮を剥かれて電子レンジであっと言う間に私の食料にされたからといって食われたサツマイモの怨念が残るわけでもないだろうし、半年間も根を伸ばし水を吸い上げ芽を伸ばしながら葉をつけ続けてきたからと言って、そうした経過に感謝することだってないだろう。そして最後の一葉を落としてそれまでの役目を永遠に終えることの悲しみだって同様である。

 それはそうなんだけれど、私にはどこか目の前にあるサツマイモの終焉が気になって仕方がない。それは私の心のどこかに「命をもて遊んでしまったのではないか」との思いが残ってしまうからである。
 水を張った皿に小振りのサツマイモを半分に切って載せた行為は、まさに「思いつき」であり「気まぐれ」であり、極端に言ってしまえば「戯れ」、そして「単なるお遊び」でしかなかった。

 それでもそうした気まぐれにサツマイモは芽吹きという形で応えてくれた。残った芋は半年の成長でその栄養分をすっかり吸い取られてしまったのか皺だらけになっているから、到底食料にはなりそうにない。残っている茎だって同様に腹の足しになるはずもない。
 処分してしまうにはまだ少し未練が残っているから数日はこのままの状態が続くだろうけれど、間もなく瓶の水は台所へ捨てられ、根も茎もゴミとして他の生ゴミと一緒に処分されてしまうことになるだろう。机からカーテンレール、カーテンレールから天井へと張られた支柱代わりの糸もあっさりと取り払われ、今は真冬だから窓を開ける機会は少ないとは思うけれど、いつもながらの窓辺が戻ってくることになる。

 そしてやがてかつてこの机の上に水栽培のサツマイモがあったことなど、思い出すことすらなくなってしまう時を迎えることだろう。それはそれでいいのだと思う。ただせめてはかつてこんなことがあったことを示す思い出のよすがにでもと、この記録は花ともそして実とも無縁のままに生涯を閉じていったサツマイモへのさやかな鎮魂歌でもある。



                                     2009.1.20    佐々木利夫


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終焉の見とどけ