「無人島ウィー」は絵本のタイトルである。ただ絵本とは言ってもいわゆる幼児向けの絵本とは少し違う。描かれている絵のスタイルも言葉遣いも体裁としては幼児向け絵本のようになっているのだが、内容と言うか目的と言うか読んでもらいたい対象とされているのはどう見ても子供ではない。
 それはかつて読んだことのある「ハチドリのひとしずく」のように、童話の形式を借りた大人向けの絵本のような気がする。だからこそそこに書かれている内容が気になって仕方がないのである。

 「小さな島がありました。地図にものっていない小さな島です」。こんな言葉でこの絵本は始まる。そしてこの時からこの島を訪れる人たちには「ただの」がつき始める。
 「ただの王様」、「ただの金持ち」、「ただの工場長」、「ただの先生」、「ただの漁師」・・・、登場するのは「ただの」が頭についてはいるけれど、それなりの地位を持ったいわゆる指導者と目されるような人たちである。その「ただの・・・」が大勢の部下を引き連れて突然に島へと来るところからこの物語は始まる。

 そしてこのウィーと呼ばれる地図にも載っていない小さな島は一つの意思を持っていた。兵士をひき連れたただの王様には、土砂降りの雨で追い払った。金で買えないものなどなにもないと思い込んでいるただの大金持ちには大地震で、環境汚染を撒き散らすただの工場長には火山の噴火で、成績向上だけを目指すただの先生には大きな竜巻を起こして教科書を吹き飛ばし、自分たちが食べる以上の魚を獲っていくただの猟師には台風、島中を畑にしようと目論む農場主には長い旱魃をぶつけた。島はそうやって自らの自然を守ってきた。

 だが物語の後半、そうして追放された「ただの者」たちが、突然心をすっかり入れかえて島へ戻ってくる。その原因についてこの絵本はこんな風に説明している。そこんところが私にはまるで理解できないのである。

 小さな島から出ていったやっかいものたちは、
 それぞれの街に帰りました。
 しかし、街に帰ってみると、兵士たち、従者たち、工員たち、
 生徒たち、猟師の子分たち、農民たちは、
 もうだれもやっかいものたちに近づこうとはしませんでした。


 「やっかいもの」とは「ただの者」のことであり、そしてこれが島へ再び訪ずれる原因として説明されているすべてである。この島から追い出された「ただの者」は、「どうして、自分は一人ぽっちなのだろう」と考え、「その答があの小さな島にあると思った」ことが、再びこの島へと来る動機になっているのである。

 やっかいものが繰り返す自然破壊に明け暮れる前半のストーリーと、後半における彼等の突然の変容をこの理由だけで説明できるとは私にはどうしても思えないのである。どうして王様はその権力を放棄しよう考えたのか、どうして大金持ちはその持てる金の力を使わないことにしたのか、その理屈を「一人ぽっち」だけでは説明がつかないと思うのである。

 話は更に進んでいき、「ただの王様はいい王様へ、そしてほんとうの王様へ」と進化する。工場長も先生も猟師もすべて「ただの・・・から、ほんとうの・・・」へと変容する。しかも王様は依然として多数の兵士を抱える王様のままであり、金持ちも依然として金持ちのままである。
 権力者は自らの心にこれほどの変化が生じているにもかかわらず、その権力を放棄することなど考えることもなく依然として権力者たる地位に止まったままなのである。

 私はこの絵本が子供向けの童話だったのならそのことに何の矛盾も感じなかっただろう。魔女や天使が持っている杖を一振りするだけで世界を思うように変へていくストーリーを少しも批判しようとは思わない。
 スポーツ番組が苦手で思わずチャンネルを回すNHK教育テレビで、時々「ぜんまいざむらい」と言うアニメにぶつかる機会がある。ストーリーでは様々なトラブルが起きるけれど、主人公のぜんまいざむらいの放つ「必笑だんご剣」に串刺しされた団子を食わせられた相手のことごとくがたちまちにして善人へと変貌し、「めでたし、めでたし一件落着」となる物語である。そうしたストーリーにだって私はなんの矛盾を感じたこともない。

 だがこの本はどう見ても地球環境であるとか、世界の子どもの貧困救済などを目的とした大人向けの絵本である。
 だとすれば、何が原因でただの王様が本当の王様に変っていったのか、どんなことが大金持ちの心を変えていったのかを読む人に分かるように説明しなければ物語りは成立しないのではないかと思えてならないのである。つまり、そうした心の変化の推移を説明をすることでこの本を読んだ多くの人々が作者の意図に共感できるのではないかと思うのである。

 現代の混乱がこんな絵本一冊で変わるほど単純ではないとは思うけれど、あたかも万能の神様がいて、一言呪文を唱えるだけで人の心を変えさせてしまうようなストーリー展開ならそれはそれで許せるような気がする。しかし「ひとりぽっちがさびしい」だけで全部を説明してしまうような安易な展開は、作者が本当に環境や貧困を身近なものとして捉えて欲しいと願っているのであるならば、とてつもない怠慢ではないかと思うのである。

 そして「小さな島ウィー」そのものも同罪である。ウィーは始めから「緑深い森は豊かな生き物たちをやさしくはくぐみ、美しい朝日と夕日、月と星がきらめく夜空がとてもすてきな島」であったはずである。そこへ現れた多くの「ただの人」によって破壊されそうになった自然を自らの力によって守ったにもかかわらず、この小さな島は再び訪れた王様や兵士、お金持ちと従者、工場長と工員、先生と生徒、猟師と子分たちなどによって溢れだした現状を何の疑問もなく許容しようとしている。

 この本は「ただの権力者」が「本当の権力者」に変っていくことを語りたかったのだろうか。だとすればそうした心の変化に対する動機や経過をあまりにも無視しているように思える。
 それとも自然と人類の共存を語りたかったのだろうか。だとすればウィーが自らを守ろうと奮闘する物語の前半がまるで浮き上がってしまうことになる。

 この絵本には副題として、「地球でたったひとつの教科書」の文字が添えられている。その意味を絵本に託した著者の自負の表れだと考えてやるべきなのかも知れないけれど、私にはこの副題からもどうにも独りよがりの鼻持ちならない臭いがぷんぷん漂ってきているように思えてならないのである。

 私にはウィーが神秘な魔力を持っていて、夕焼けを起こせるような神通力をふるって「ただの猟師の心」を「本当の猟師」に変えさせたとするストーリーのほうがずっとずっと納得しやすいのであるが・・・。



                                     2009.1.14    佐々木利夫


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無人島ウィー