私にとってのトンネルの思い出は、笑われるかも知れないがどちらかと言うと幽霊への恐怖だった(別稿、「昔、夕張鉄道があった(1)」参照)。それでもどうしても錦沢駅まで行かなければならないのに汽車賃がないことや好きな時間帯に歩いて行けることなどから、トンネルの暗闇を一人で歩いて利用していたのが私の中学生時代だった。

 目的は「錦沢駅」の近くにある人工池で、水泳の練習をするためであることは前編で書いた。錦沢は学校からも遠く離れており、沢の水を利用した池はプールなどよりもずっとずっと冷たかった。市内にもプールはあったけれど北炭という一私企業の所有であったから個人としても学校としても安易に使うことなどできず、それでわざわざ遠くまで歩いて通ったのかも知れない。

 ところでこの錦沢駅にはプール代わりに利用していた池のほかに、もう一つ珍しいものがあった。この駅付近には数人の駅員の宿舎とお寺があるくらいで街らしい作りにはなっていなかった。それについては前稿でも書いたところだが、この駅はトンネルを二つ越えた単なる山間の通過駅であり、それはその駅の所在地が急勾配の山の中にあることを示している。

 夕張鉄道で錦沢駅を利用したり通過するたびに経験していたのだから、それほど珍しい現象だとはあまり感じていなかったけれど、この駅は鉄道の敷設方式の中でも独特な形式を持っていたのである。それは「スイッチバック」と呼ばれる方式であった。スイッチバックとは急坂を列車が上っていくための方法の一つで、いくつかの種類があるらしいが錦沢の場合はこんな方式であった。

 急勾配の地形に駅を作り列車を走らせる必要があるとき、その勾配の坂道の途中に駅を作ることも理論的には可能ではある。だがその勾配によっては駅へ停車した列車を止めたまま維持するブレーキの確実性や、再出発するときにうまく前進できるかなどの問題が起きる。それで水平な位置を設けて駅を作る必要がある。だが利用できる地形が短い場合、水平部分を設けてしまうとその前後に必要となる線路の勾配が更に急角度になってしまうという欠点が残る。これを解決するために次のような行きつ戻りつの線路を敷設するのである。

 まず平らな位置を作って駅を設け、その前後に数百mの水平な線路を敷く。これでとりあえず駅付近は平らな地形となる。さて仮に左下から右上への急勾配に列車を走らせることにしよう。左下から喘ぎながら上ってきた列車は、上の方にある駅を見上げながら上り勾配のまま通り過ぎ、しばらく走って駅から伸びた水平な線路の右手へと進入する。そこで一端止まって後方のポイントを駅へと向かう線路に切り替え、今度はバックしながら駅へと向かうのである。駅で客を乗降させた列車はバックのまま駅の左手へと向かう。そしてそこで再び止まりポイントを切り替え、今度は上り勾配の線路に入って右手へと前進し次の駅へと向かうのである。つまり、右方向から上りで前進、停車、水平線路に切り替えて左にバック、駅停車、更に左へ水平にバック、停車、上り勾配の線路に切り替えて前進、これで理屈上列車は左から右へと急勾配の路線を運行していくことができるのである。もちろん下りがこの逆になることは言うまでもない。

 一直線に進むのよりも効率は悪いけれど、こうした急勾配対策の線路は全国にはいくつもあったと言われている。もちろんスイッチバックだけが急勾配対策ではなく、例えば山をぐるりらせん状に上って行くようなループ式と呼ばれるシステムなどもあったと聞いている。
 それでもこのスイッチバック方式はそれなり珍しいシステムだったらしい。そんなことに特別気づくこともないまま少年の私は、止まってバックし、また前進するという列車の動きを何の不思議や興味を感じることもないままに過ごしていたのである。

 前編でも書いたように、私はもっぱら歩いてこの錦沢へ来ていたのだし、札幌へ行くなどというのは数年に一回、それも高校での就職試験などの機会でしか利用することはなかったように記憶しているから、このスイッチバックだってそれを実感するほどには利用していなかったのかも知れない。

 それでも錦沢の地は、水泳以外にも例えば花見であるとか、年に一回程度北炭が従業員慰安のために開催したのではないだろうか花火大会などに、家族で来たような記憶がかすかに残っている。だから何回か列車は常に前進ばかりするものではないという経験をしたのではないかと思う。

 それは大人になって、札幌から網走方面へ出張したとき、北見を出た列車が紋別駅で突然逆走し始めたときなどに、ふとこの夕張鉄道を思い出したことからも分かる。もちろん紋別からの逆送はスイッチバックではなく、紋別駅が網走へ向かう線路の途中駅ではなく、遠軽と言う駅から飛び出た場所であったことから必然的に再び遠軽駅に戻らなければ網走へ行き着けないというだけにしか過ぎなかったからである。つまりこの網走行きの列車は紋別から逆送のまま終着駅へと向かうのであって、スイッチバックのように逆送から前進へと切り替えられることはなかったのである。だから乗客は紋別駅に到着するや否や進行方向へとぐるりと座席を回転させるのである。

 こうして書いていると花火大会の記憶も少しずつ戻ってくる。5分か10分おきにそれほど派手ではない花火が一発だけ打ち上げられると言う、今時の花火大会からするならとんでもなく間の抜けたものでしかなかったし、合計でもせいぜいが20発に足りない数でしかなかったような気がしている。それでも少年の記憶にはどこかで真っ暗な夜空に打ち上げられたきらめきが僅かにしろ残されたままになっている。

 私が高校に通い始めた昭和30年代になって炭鉱は急速に衰退していき、それにつれて鉄道も同じような道を辿った。夕張鉄道は路線の縮小を重ねながらも細々と生き残ってきたけれど、昭和50(1975)年に全線が廃線になり札幌へのバス路線に転換された。もちろんバスのルートは鉄道とはまるで違っていたから、鉄路そのものはまるで利用されないまま処分されたのだろう。錦沢はその後もしばらくは公園として維持され、そこまでの遊歩道が整備されていたとの話を聞いたことがある。しかしそれも間もなく利用する人もないままに忘れられ放置されたままになっているとも聞いた。

 後年マイカーを持ったのを契機に何度か夕張を訪ねたことがあり、その折に道が通じているなら歩いてでも寄ってみたいと錦沢への遊歩道の始発点を探したことがあった。だがきちんとした情報を得ていなかったせいもあるのだろうが、2〜3度チャレンジしたものの見つけられないままになってしまった。今では既にマイカーも手放してしまっているから、再び錦沢を訪れるチャンスはないことだろう。仮にそのチャンスがあったところで管理されていない山の中は、駅も線路も池も公園も建物もなく単なる山間だけになっていることだろう。

 今から60年近くも昔ではあるけれど、当時の山桜は誰一人訪れる人のないあの場所で、今でもまだしっかりと春に花を咲かせているのだろうか。吹く風に花びらを散らせているのだろうか・・・。そしてかつて私の住んでいた街と錦沢とを結ぶ途中にあったあの二つのトンネルは、鉄路を欠いたまま今でも残されているのだろうか。そこには今でも蒸気機関車の臭いが残っているのだろうか・・・。

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                                     2009.10.29    佐々木利夫


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昔、夕張鉄道があった(2)