一ヶ月ばかり前ここへSLの思い出を書いたばかりだが(別稿、「SLの遠い思い出」参照)、書きながら私の記憶の中のSLには石炭を輸送している力強い国鉄石炭列車の姿ばかりでなく、「夕張鉄道」と呼ばれていた私鉄も身近に存在していたことを同時に思い出した。

 夕張鉄道とはその名の通り私の生まれた夕張にあった私鉄である。北海道炭鉱鉄道(後の北海道炭鉱汽船、略称「北炭」)が石炭や採炭資材などの輸送のために大正10(1921)年に設立し、5年後に開業したとされているから私の生まれるずっと前から存在していた鉄道である。
 国鉄と同じく夕張を始発とする鉄路であるが、国鉄は夕張線の終点追分駅から西へ向かう室蘭本線に接続して室蘭港へと続いていたのに対し、私鉄の夕張鉄道は北方面の札幌に近い野幌駅までを結んでいた。

 開拓当初から札幌は北海道の中心だったから、国鉄経由でも夕張鉄道経由でも札幌へ行くことはできたけれど、国鉄を利用すると追分、岩見沢で乗り換えそして札幌と言う遠回りだったのに対し、私鉄では野幌乗り換えだけで札幌へ行くことができ距離も短かったから、当然に料金も安く札幌へ行くためには夕張鉄道を利用することが多かった。

 夕張には当時多くの坑口(石炭を掘るための入り口)がいくつもあり、その坑口を中心として小さな部落(つまり住宅街なり商店街など)が形成されていた。北炭には夕張の一番奥にある本坑を始めとして、私の家族が住んでいた平和坑(へいわこう)、そして真谷地坑(まやちこう)、楓坑(かえでこう)などがあり、北炭のほかには三菱の経営する大夕張坑や中には個人経営みたいな蜂の巣炭鉱と呼ばれる坑口もあったから夕張はまさに石炭一色の町であった。

 国鉄は市の一番奥にある始発の本坑近くの街を出発して鹿ノ谷駅を経由して真谷地方面から追分、室蘭へと向かうのに対し、夕張鉄道は国鉄とほぼ同じような場所にある商店街近くの駅を出て鹿ノ谷駅を国鉄と共同利用し、そこから私の住む平和坑の傍から国鉄と離れて右へ大きくカーブし野幌方面へと向かうのである。

 とは言え夕張鉄道とても単なる輸送機関でしかない。私にとってそもそも札幌にはほとんど用事がなかったから、鉄道を利用する機会がそれほど多かったわけではない。しかし私の住む平和坑の近くを大回りした次の駅は「錦沢」と呼ばれており、この地には特別の思い出が残っている。

 線路は汽車しか走らない。それは今も昔も同じである。と言うことは、汽車の走らない時間帯の線路は常に空白、つまり無人だと言うことである。それがたとえ草の生い茂る錆びた鉄路であろうが、トンネルの長い暗闇の中であろうともである。錦沢へ向かう途中には大小二つのトンネルがあった。夕張そのものが山間の沢の町だから、他の地域に出るためのトンネルは必然でもあっただろう。つまり線路を歩いていけばトンネルを抜けて錦沢へ行くことができるということである。

 ではどうして錦沢へ歩いていく用事があったのか。歩いたのは運行時刻の関係と言うよりは単純に汽車賃がなかっただけのことであり、しかもそこへは歩いていけるほどの距離であったということである。では錦沢に何があったのか。私の記憶する限りこの駅付近には寺が一軒、それに鉄道員の宿舎が数戸あるだけだったような気がしており、商店などまるでない単なる通過駅にしか過ぎなかった。
 ただこの地は夕張唯一の遊園地だったのである。遊園地とは言っても深い沢地の山の中であり、春は桜、秋は紅葉くらいしか見るものとてないのだが、その沢に水を溜めてボートを浮かべる池が作られこじんまりした小公園になっていた。駅付近にはいくつかの遊具が置かれていた程度である。だがその遊具で遊ぶために私は線路を歩き、トンネルを抜けていったのではない。その池で泳ぐためだったのである。

 小学生の頃から私は水泳が好きだった。炭鉱町というのは、北炭そのものが当時としては比較的裕福な企業だったからなのかもしれないが、プールや映画館や公衆浴場など多くの福利施設を持っていた。父が北炭の従業員だったから、家族はそうした場所を比較的簡単に利用できたこともあった。プールも同様で人々に混じって水泳大会に出場して上位入賞を手にしたこともあった。

 やがて私は中学生になり水泳部に入った。とは言っても基本的に北炭のプールは大人のためのものであり、例えば好きなときの練習であるとかクラブ活動での利用などは難しかったような気がする。川で泳ぐことなども当時の子どもにとっては当たり前のことだった。中学校の先生も水の事故などについてそれほど心配することもなかったし、長距離を歩くことだってそれほど気にしていたわけではないようだ。それで錦沢の池へは練習のために単独で、時にはクラブの仲間と、時には担当の先生と部活そのものの活動として出かけることもあった。

 中学校の裏山を越えて錦沢へと山道を歩くルートもあった。だから放課後のクラブ活動の時はそのコースが多かったように思うけれど、自宅からは線路を歩いて行く方が手軽だったこともあり、一人で練習するときやクラブ活動での帰り道などはトンネル抜けをすることのほうが多かった。今思い出してみると、トンネルそのものを山越えするような細い山道があったように記憶しているが、山越えよりはトンネルを抜けるほうがずっとずっと楽である。必然的に一人の私は暗闇のトンネルを歩くことが多かった。

 それほど交通量の多い線路ではなかったから、いつも無人の状態が多かった。それにそうした線路そのものが子どもの遊び場でもある。SLはそのものが大きな音を出しながら走っていたし、鉄橋やトンネルや踏み切りに近づくときなどには常に汽笛を鳴らしていた。またレールの継ぎ目を通過する特有の音などから、特に時刻表を気にかけないでも近づく機関車を知ることは可能であった。もちろんレールに耳を当てて近づいてくるSLの音を聞くことだって遊びの一つにはなっていた。

 ただ列車が近づいてきたときには、普通なら線路から横に避けることでやり過ごすことくらい簡単にできたけれど、トンネル内は別である。列車から逃げてトンネルから先に抜け出す以外に基本的に避けようがない。入り口や出口の近くで近づいてくる列車をチエックできれば避けることくらい簡単だけれど、トンネルへ入ってしばらくしてからSLに気づいた場合などは多くの場合手遅れである。
 だがそうした場合には、トンネル内の内壁には数箇所の退避用の窪みがあって、そこへは2〜3人くらいまとめて避難することができるような空間が用意されていたから、そこへ逃げ込むのである。

 列車はそんなに頻繁に走っていたわけではないし、時刻表をメモしておけばトンネルを通過するおおよその時刻くらい想像がつくようなものだと思うかも知れない。だがそうした考えには基本的な誤りがある。小学生や中学生の私には、家庭や学校以外に正確な時刻を知る手段がなかったからである。今でこそ100円ショップでも売られている腕時計だが、当時の時計は家庭では柱時計だったし、身につける懐中時計は高級品で子どもの手にするものではなかったからである。
 列車がトンネルを通り抜ける時間はせいぜい数分間である。仮に家を出るときに柱時計で現在時刻をチエックしたとしても、そこからたっぷりと歩いてトンネルに着いた時に、トンネル内で列車と遭遇する可能性の有無をチエックすることなど不可能に近い。それよりはそんな時刻表など無視して、行き当たりばったりに向かったところで列車と遭遇する確率は極めて低いと言っていいだろう。

 現にそうした行動でもトンネル内でSLと遭遇する機会はとても小さかったのである。だがそれでもほんの僅かな確率にもせよ暗闇に爆走するSLと出会う危険を避けることはできなかった。トンネル内は私一人だけの孤独な世界である。それでなくても真っ暗闇で、入り口と出口の僅かな明かりだけでは足元すら見えることはない。
 こう言ってしまったら実も蓋もないけれど、真っ暗闇のトンネル内の一人は子どもにとっては幽霊やお化けの世界でもあった。身近にそうした事実があったわけではないけれど、「トンネル内で人が死んだ」みたいな話は、作り話にしろ実話にしろもっともらしい現実感を与えるものがあった。そんな恐怖に耐えながらの列車との出会いだったのである。

                  錦沢駅にはもう一つの思い出があります。後編(2)はこちらから



                                     2009.10.27    佐々木利夫


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昔、夕張鉄道があった(1)