前稿(別稿「アナログからデジタルへ」参照)ではデジタルとアナログについてくどくど知ったかぶりを披露してしまったが、そんな冗長さも私自身がアナログ人間であるところから来ているのかも知れない。何と言っても「デジタル」と言うのは私が大人になってから出回ってきた言葉で、テレビや写真などの映像も、レコードや音楽テープなどの音声も、作文や日記や詩歌なども、身の回りのデータのほとんどがアナログだったからである。

 身の回りのデータと言うのは、言い方を変えるなら自らの人生の思い出の蓄積でもある。もちろん図書館や博物館などの資料も理屈を言えばその多くが基本的にはアナログであろうけれど、私の持つ写真や日記もまた私自身の歴史であり、それは同時にアナログで記録された人生と言うことになる。

 テレビ放送が来年7月から全面的にデジタル放送に切り替わることになっているが、私自身にとっては今のところ手持ちのアナログテレビで十分に間に合っているから、デジタルテレビへの買換えはまだまだ先の話である。私の身近なデジタルと言うのは前稿で書いたCDの浸透やマイコン導入が先駆けだったかも知れないし、インターネットで自分のホームページを作ったこともそうかも知れない。だが一番身近にデジタルを、しかも直接に感じたのは「デジタルカメラ」であった。それはフイルムを必要としなくなったことで、これまで抱いていたカメラの概念を根底から覆してしまったからである。

 レンズを通した映像がシャッターを切ることで装着されたフイルムに記録され、その画像は現像されたフイルムとして街のDPE店から手元に戻ってくる、それが私にとってのカメラの意味であった。そのフイルムは白黒またはオレンジ色の反転された映像ではあったけれど、まさに目に見える「物」として私の目の前に存在していたのである。もちろんそれをアナログ画像だなどと思っていたわけではない。だがある日そのフイルムが忽然として必要がなくなり、代わって「メモリー」と称する爪先ほどの小さな物体に取って代わることになったのである。そうした変化はパソコンの普及と期を一にするかのように爆発的に世間へと広まっていった。

 私が自分のカメラを手にしたのは、高校を卒業して就職し3年を経た稚内税務署時代のことだったから、今から50年ほども昔に遡る。まだカラー写真には程遠い時代で、高価な一眼レフやニ眼レフには手が届かなかったけれど、レンズシャッターのズシリとくるカメラの手応えに稚内の海岸や港のかもめなどを追いかけて走り回っていたことを思い出す。そしてやがてカラーフイルムの時代が訪れ、そのうちに私はポジフイルムを知るようになってきた。

 ポジフイルムとは写真のネガのように反転しているのではなく、見た目そのままの画像がフイルムに残るものである。ただその色調がネガプリントから焼き付けたカラー写真とはまるで違う鮮やかさだったものだから、10年近く私のカメラはポジフイルムで占められることになった。ポジフイルムは連続したフイルムを一こまずつ肉眼で見ることも可能ではあるが、普通は一枚単位に切り離して厚紙やプラスチックで作られた専用の枠にはめ込んで(マウントと言って、通常は現像と一緒に写真屋に外注していた)鑑賞するのである。部屋を暗くしてスライド投影機(私なんかは子供の頃の思い出からそれを「幻灯機」と呼んでいた)で壁にかけたスクリーンに映して見るのが通常であり、家族に見せ解説しつつ、一種の自作の映画を見るような感じでわくわくしたことを覚えている。

 そんな時代が10数年も続いただろうか。ネガフイルムに撮影された映像は必ず紙写真に焼付けしていたからアルバムに残っているし、マウントされたポジフイルムは専用の箱型ケースに保管していた。ネガは写真として焼付けが終ると同時にとりあえず用済みとなることから、その多くは散逸してしまっているけれど、それでも「捨てる」ことにはいささかの抵抗があったらしく、いつの頃からか「ネガホルダー」なるネガ専用のアルバムに保存するようになっていった。しかし。幻灯機の方はいつの間にか紛失してしまっていたから、アルバムならたまに開くことはあっても、ネガもポジもフイルムそのものは私の書棚のなかで出番のないまま埃にまみれているだけになり、やがてその存在を思い出すことさえ少なくなっていった。

 そして時代がデジカメへと移っていったことが、こうしたアナログ画像の出番を私から急速に遠ざけていくことになった。フイルム代わりのメモリーはその記憶容量を大きくするだけで、それまでは一本のフイルムに36枚程度しか写せなかった写真が、100枚、1000枚などど増えていった。それはまさに感覚的には無尽蔵の映像の保存が可能になったと思えるほどであった。しかも撮影した画像を直ちに再生し、出来が悪ければその場で削除することすら可能になったのである。これによって未撮影のフイルムを何本も抱えて旅行し、撮影済みのフイルムをまた何本も抱えたまま旅行を続けるというこれまでの行動パターンからは完全に解放されることになったのである。

 更にメモリーに記録された映像はそのままパソコンに保存ができるようになり、保存した後のメモリーはその内容を消去することで新たなメモリーとして使うことができるのである。しかもカラープリンターの普及は「街の写真屋」から現像だけでなく写真にする焼付けさえも奪うことになったのである。カメラは撮影から写真にいたるまですべて一人の個人の作業領域へとその守備範囲を移していったのである。そうした変化は逆に言うと「紙写真」としての位置そのものをも変化させていった。パソコンに取り込まれた画像データは、そのままモニター画面一杯にまで拡大して見ることができるようになっているからである。モニター画面の大きさはそのまま写真の大きさであり、それはテレビ画面の大きさと並ぶものであった(今では液晶などの薄型テレビはパソコンとそのまま接続できるようになっている)。

 しかもその画像はそれほど大きく拡大しても画質の劣化がないのである。それはもちろん撮影する画素数によるのではあるけれど、何百万画素であるとか何千万画素での撮影がカメラの性能として当たり前になってきていて、普通に撮影してもほとんど気にならないくらいの解像度を持っているのである。アルバムを繰るという作業の代りにパソコンのマウスをクリックするだけで、好きなときに好きな写真を眺めることが可能になったのである。そうした機能に呼応するように、パソコン内にアルバムを作るようなソフトも普及してきた。一定の画面に任意の写真を拡大もしくは縮小して任意の場所に貼り付け、そして任意のコメントを挿入することができ、場合によっては数ページ、数十ページを一まとめにしたアルバム様の編集さえも可能になっているのである。

 もちろんそれは私がパソコンを保有し、多少なりとも使いこなせているからではある。パソコンなしではこれまでの紙写真のアルバムを踏襲するしかないからである。
 今やデジタルは写真に限らなくなってきた。パソコンを経由することで音楽もまた使い捨てライターほどの大きさの装置へと、それこそ無制限と言えるほどの曲数を移して聴くことができるようになった。今やカセットテープもレコードプレーヤーも必要のない時代へと代っていった。テレビ録画もいつの間にかいわゆるビデオテープの時代からHD(ハードディスク)へ数十、数百時間も記録されるようになっていった。それもこれもデジタルデータの処理速度の向上と完璧なコピー機能によるものである。

 CDを聞くというだけの時には、それがアナログ録音なのかデジタル録音なのかを考えることはなかったけれど、その音を携帯プレーヤーに移すとなると突然、デジタルであることが目に見えるようになってくる。映画もこれまでの何巻にもわたるフイルムの時代から、メモリーへ記録してそれを映画館に光回線などで配信し再生する方向へと変わりつつあるようだし、私がインターネットで見ている映画や様々な動画もまさにデジタル信号そのものである。

 世はまさにデジタルの時代へと大きく変化しようとしている。それはそのデータがデジタルであることを認識しているかしていないかを超えた変化でもある。
 私がここに書きつつあるエッセイもどきの雑文も、この作成ソフトの画面の欄外にある「ページの保存」と表示のあるアイコンをクリックするなら、とたんにパソコンの中に「デジタルデータ」として保存されることになる。そしてそのデータが東京か九州か、はたまた外国かは知らないけれど、一定の手続き後に「送信」のボタンを押すことでデジタルデータとしてどこかのサーバーへと瞬時に転送され、同時にネット上にデジタルデータとして公開されることになるのである。

 それがデジタルの便利さであり良さなのだと言えばそれまでではあるけれど、そうした便利さと引き換えに私たちはこれまで大切に持ってきたアナログデータであるとか、更にはアナログ的な思考と言った財産をどこかへ置き忘れてきたのかも知れないと思うことがある。そしてその忘れ物は過ぎ去ってしまった時の流れの中に埋没してしまい、もう決して探し出すことなどできないまま、再び手元へと戻ってくることなどないのではないだろうかとも・・・。

 ところで先に「思い出すことさえ少なくなっていった」と書いたネガ・ポジフイルムなどのアナログデータが、最近私の中で復活する機会が訪れてきたのである。それもまたデジタルとは密接不離の出来事ではあったのだが、その経緯については稿を改めることにしよう。


                                      「老いるアナログ」に続く



                                     2010.1.22    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



私の中のアナログ