いつの間にか世の中デジタル全盛の時代になってきた。デジタルには単に「ある数量を段階的に表示する」程度の意味しかないから、そうした意味では縄文や弥生式時代まで引き合いに出さないまでも、時刻でも四季でも単純な商取引などでだって数字は昔から使われてきたことだろう。だからデジタル表示と言ったところでそれほど珍しい表現ではないかも知れない。動物の中にも猿や犬(時には馬)などにも数を理解する能力があるなどとテレビで騒がれる場合もあるので、数の理解が人間特有のものだと断定することはできないかも知れないけれど、大雑把に言って数の利用を人間社会に限定して理解してもそれほど間違いではないだろう。

 私が最初に「デジタル」と言う言葉を聞いたのは、今から40年以上も前になるがコンピューターと称する得体の知れない代物に興味を抱いて自分なりに勉強を始めた頃だったような気がしている(別稿「私のパソコン事始め」、「コンピューターがやってきた」参照)。その頃の「デジタル」とはコンピュータ用語としての二進数の意味を持っていた。そして、当然のことながらデジタルに対応する「アナログ」と言う言葉をまだ私は知らなかった。

 やがて「デジタル」と言う語は腕時計に使われるようになってきた。それは時刻を知るための文字盤が数字で表される時計の意味であった。つまり、それまでの短針と長針(時に中三針と名づけられて比較的高価だった秒針を持つ時計もあった)の位置関係で現在時刻を知る方式から、ダイレクトに何時何分(場合によっては何秒まで)を数値として文字盤から直接に知ることのできる時計と言う意味であった。そしてこの頃から針式の腕時計を「アナログ時計」、数値式のものを「デジタル時計」と呼ぶようになってきたような気がする。

 もちろん現在使われている「デジタル」の語を単なる「数字」と理解してしまうことは間違いであり、「二進数」とする理解もまた正確ではない。デジタルとは「中間のない数値で作られた数の集団」とするのが一応正しい理解のような気がする。「1、2、3・・・」がデジタルであり、そこには1.5だとか、2.5など(中間と言っても真ん中と言う意味ではなく、1.1とか1.2なども含めて)を認めない世界である。そうした意味では「1」と「0」、厳密には情報の「ある」、「なし」と言う二つの状態でデータを表示すると言う意味での二進法が「デジタル」の具体例として使われやすくなっていることは否めない。ただそれは単にコンピューターの情報処理(つまり計算)が二つの状態を区別することで可能だという意味にしか過ぎないのではあるが・・・。

 そうした区別はやがて音楽を記録する媒体が、レコードからCDへと移り変わるとともにデジタル音源という語として普及するようになってきた。CDと言ったところで自分で手にするまではまったく未知の媒体であり、レコードとどう違うのかも最初はまるで理解していなかった。なんたって最初は「片面しか使えないキラキラと光った金ぴかのとてつもなく高価なレコード」みたいなイメージしかなかったし、しかも再生装置ともども高価だったから手に入れることはもちろん触れることも見ることも珍しい時代が長く続いた。

 音にも多様な楽器やその音色などがあり、同時に演奏の巧拙やその時々の演奏の仕方などを考えると、無限とも言えるような変化があるだろう。しかもそれが数十人と集まるオーケストラによる演奏まで考えるなら、現実の音は途方もない数の組み合わせの結果としてできているような気がする。だからそれをそのままデジタル化すると言うのは必ずしも私の中ではきちんと理解できていないのだが、例えば「色」のデジタル化については理解しやすいこともあって私はそれと同じようなものだと単純に理解している。

 それはつまり色に番号をつけると言う意味である。理論的に言うなら色の種類はいくつあるのかと問われるならば「無限にある」と定義できるだろう。例えば「赤」、「青」、「黄」を色の三原色と言うが、色にそれしかないのであれば、それぞれを1、2、3と番号をつけることで表現することができる。だが色はこの三色だけではない。赤と青を混ぜ合わせる場合だって、その混合する割合は無限に存在するだろうからである。色には紫や緑や橙色など、そのほか濃淡や微妙な明暗や中間色なども考慮するなら、まさに千変万化であり無限にあると言うことになる。とするなら、色に番号をつけると言ってもそのためには無限の数値が必要になってしまうことになる。いかにコンピューターといえども無限を相手にするには無限の時間が必要になることでもあるから、それを処理することは事実上不可能と言うことになる。しかし、ここでほんの僅かな違いの色であっても「人間の目で違いが判定できない範囲の色は同じ色とみなす」と言う定義を設けるなら、無限であるはずの色は突然有限かつ限定的、つまり処理可能な数の範囲に入り込んでくる。

 それがたとえ100万色、1000万色、それ以上の数になろとも、それぞれの色に固有の数字(番号と言うべきか)を割り当てることで色を特定できることになるのである。そしてある大きさの画面をいくつかの微小にしろある面積を持った区画に分割し、それぞれに番地と色番号を付することができるなら、コンピューターはたちどころにモナリザの絵であろうと私の撮った旅行写真であろうとも、一塊の数値の集団としてその画像を記録、保存、そして再現できることになるのである。

 そうした数値化され、それを再現できるようなデータ集団を利用する技術をデジタル化と呼ぶようになった。そして数値化されていない例えば原画としての絵であるとか、下手くそな私のギター演奏の録音などはアナログと呼ばれるようになった。もちろん書いた絵といえども顕微鏡的なレベルで考えるなら絵の具の分子の集まりなのだから一種のデジタルの塊りと言えないこともない。ただ分子そのものに番号を付してそれに色データを付与して管理するものでない以上、それをデジタルデータと呼ぶことはできないだろう。

 テレビ放送もあと1年数ヶ月で現在のアナログ電波による放送から、全面的にデジタル放送へとNHKのみならず民放も含めた全部が切り替えられる。既に現在でも空中にはアナログとデジタルの電波が混在して飛び交っているのである。一つの静止画がありそれをデジタルで表示できるのなら、その静止画の変化を1秒に数枚の単位で切り替えができるならそれを動画と呼べるのである。

 時計を見ているとアナログとデジタルの違いの意味が良く分かる。10時58分は針式の時計によるなら「もうすぐ11時」である。何時何分と言う考え方をするときもないではないけれど、それでも人の生活はデジタルではなかったような気がする。それはもちろんアナログ時計には分秒までの表示がなかったことからくるのかも知れないけれど、時計とは多少遅れたり進んだりするものとしていの理解が多かったから、「何時半」だとか「もうすぐ昼飯」みたいな意識があったのに対し、デジタルはただ単に「何時何分何秒」と言う情報のみを淡々と伝えるだけであって、「もう9時か・・・」みたいな意識はデジタルからアナログに一度変換してからでないと湧いてこなかったような気がする。

 「だから何なんだ」と言われても返答に困るけれど、生まれてこの方アナログにどっぷりとつかった人生を長く続けてきたこの身にとってみると、そうしたアナログのどこか曖昧で混沌とした時代がどこか居心地(住み心地)が良かったような気がしてくるのである。


                                     「私の中のアナログ」へ続く



                                      2010.1.21    佐々木利夫


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