電気自動車にエコを重ねるのはどこか変じゃないだろうかと書いたのは、つい先月のことである(別稿、「
電気自動車への不思議」参照)。それと同じような系譜に連なるのかも知れないけれど、電気の買取りを巡る論議にもどこかすっきりこないものを感じてしまった。
それは家庭において、例えばソーラーシステムを設けて太陽光発電などをした場合、発電量に応じてその電力を電力会社が一定の価格で買い取ることを法的に義務付けようとする動きについてであった。各家庭が新たにソーラーシステムや、場合によっては風力やそれ以外の手段によって自家発電を試みることに異を唱えようとは思わない。現在の電力は、原子力のウェイトは高まりつつあるもののまだまだ石炭や石油に依存しており、そうした発電のシステムはそのまま二酸化炭素、つまり地球温暖化ガス排出の問題につながっているからである。
国の政策として発電を原子力のウェイトを高める方向に進めたり、太陽光にしろ地熱や風力などにしろ、二酸化炭素排出を減らす方向へと向かっていくことは理解できる。そうした中で、各家庭などの個人にあっても同じような方向に向かおうとする動きを政府も後押ししようとすることは当然のことなのかも知れない。地球温暖化の防止は世界的な課題になっているのだから、そこまでは私としても理解できないではない。
だがこうして各家庭が発電した電力を電力会社が買い取ること、そしてそれも一般に供給している電力料金よりも高額で買い取ること、しかもそれを法律的に義務付けようとしていることにどこか割り切れないものを感じてしまうのである。
単に買取りを電力会社に義務付けるだけなら、それはそれでいいではないかと言うかも知れない。だが私はそこにどこか欺瞞のようなからくりを感じてしまうのである。政府はエコの後押しとして、この太陽光発電などの電力の買取りに税金は使わないと明言している。ならばその買取りは電力会社の負担で行うのかと言えば、それも違うのである。
つまり買取りの費用は、電力会社が消費者全体から徴収する毎月の電力料金に上乗せして負担してもらうと言うのである。税金は使わない、だが電気料金には上乗せして国民から徴収する、この間の理屈が私にはどうもすっきりとこないのである。結局買取り料金は国民から徴収するのだから、国民の負担という面から見るならば同じこと、もしかしたらもっと不合理なシステムになっているように思えるのである。
買取り費用は一世帯当たり月額30円から100円程度だとの試算があるようである。だから家計にそれほど影響するほどの金額だとは言えないかも知れない。
それはそうなんだけれど、私には太陽光で発電した電力は基本的にはその発電した家庭における消費電力との相殺という形で考慮するのが本来ではないかと思うのである。毎月の電力消費量が太陽光発電のぶんだけ低くなり、それに伴って電気料金も安くなる、これが基本ではないかと思うのである。
もちろん太陽光発電などで得られた電力が、例えば電圧や周波数や発電の強弱などの質的な安定性を欠くことによって発電場所での直接的な利用が難しい場合もあるだろう。そのためにとりあえず電力会社の電力の中に混ぜ込んで、改めて安定した電力として供給するようなシステムを否定はすまい。それでも私は自家発電による電力は、トータルとしてその発電場所で使うのと同じような効果なり結果を持たせるべきだと思うのである。それはつまり、一般家庭における電力料金と同価格による買取りである。
その程度の買取り価格ではソーラーシステムなどの設備投資が回収できず、各家庭を通じたエコ発電の普及が難しくなると言うかも知れない。だからと言って、そうした採算の合うような価格に達するまでの差額を無差別に一般家庭に負担させる手法はどこか変ではないだろうか。それは毎月の負担額がそれほど大きくないことで説明付けられるものではないだろう。「エコ発電は社会の要求である」みたいな掛け声のもとに、隣家のソーラーシステムのために、どうしてそのソーラーシステムと無関係な私が余分な支出をしなければならないのだろうか。
地球温暖化ガスの排出を縮小するような発電システムに社会が移行していくことが望ましいことに異論はない。また、発電以外に各家庭や工場やオフィスなどが電力消費を抑え、そうした方面からのエコを考慮していくことも必要だと思う。
そう思う一方で、例えば私が省エネタイプの冷蔵庫や洗濯機を購入したり、電灯をこまめに切ったりテレビのメイン電源を切るなどで待機電力の抑制に努めたりして電力消費を小さくすることでエコを目指したとしよう。その場合の私にとっての金銭的なメリットは、通常価格による電気料金が安くなることだけでしかない。それに対してソーラーシステムを設置した隣の家庭は、更に上乗せされたメリットを私からもぎとっていくのである。その辺の整合性が私にはどこか納得のいかないものになっているように思えてならない。
例えばエコ発電を政府が後押しするために税金で補助金なりを支出する。それとは別にそうした補助金に換えて国民の電気料金に上乗せする形でエコ発電による電力を高く購入する。税金も電気料金の上乗せも共に国民の負担であることに違いないではないかとの意見があるかも知れない。
私には電力料金の決定過程に国民の参入がどの程度係わっているのかその経過を知らない。知らないでこんな意見は早とちりかも知れないけれど、「税金の使途」という国会論議を通じた予算審議のシステムと電気料金の値上げと言う私企業の決定システムとを同視することはできないのではないだろうか。少なくとも電気料金に上乗せするのなら貧富の差を問わないすべての国民に対する均等な負担になるだろうし、税金ならば納税額の多寡に比例した負担になるという違いだけは確実に存在することになるだろう。
2010.6.18 佐々木利夫
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