「灰色の脳細胞」と言えばアガサクリスティーが作り上げた探偵ポアロの名セリフだが、ここに掲げたタイトルはそれとはまったく意味が違う。つい先日、菅総理と小沢元幹事長との間で戦われた民主党代表選挙に関する新聞投書に「清潔な無能より灰色の有能を」とする読者からの投稿が載っていて(2010.9.2、朝日)、ちょっと気になったものだから引用してみたのである。
投稿者は「白猫だろうが黒猫だろうがネズミをとる猫がいい猫だ」との中国のケ小平元主席の意見を引用して「私ならな無能より灰色の有能をあえて選びたい」と再度タイトルと同じ表現を重ねてこの投稿を結んでいた。
まあ、そう思う気持ちの分からないではない。昔から日本にも地域のボスや政治家などの実力者に対して、いわゆる「清濁併せ呑む」ような能力を期待する風潮があるからである。しかしここで投稿者の言う「灰色」をイメージして、私はハタと困惑してしまったのである。
それは「清潔」には一つのパターンなりイメージがあるのに対し、「灰色」と言うのはまさに「真っ白から真っ黒」に至るまでの様々な位置の中における「両端ではない」と言う意味にしか過ぎず、現実的にはその位置を特定できないのではないかと感じたからであった。
恐らく投稿者の抱く「灰色」の中には、「決断できない者、決断の遅い者」などは含まれていないだろう。むしろ「多少独裁であっても、国民のためを思って結果を実践できる者」を意味しているような気がする。だとすればそうした範疇には、「目先の国民を犠牲にしてでも経済発展に向かう人」だとか、「沖縄住民を置き去りにしても全国民のために良好な日米関係を築く人」、「年金の支給額を減らしてでも財政再建に取り組む人」なども灰色に含まれることになるのだろうか。
恐らく「全部真っ黒な人」などこの世にはいないのでないだろうか。たとえ独裁者として悪名高いヒトラーの思想にしたところで、少なくとも可愛がってもらえている側近であるとか、選民意識に同調した純粋なドイツ人などにとっては理想的な指導者だっただろうからである。同様にまた「まったく清潔な人」つまり「全部真っ白な人」もまた存在しないと言ってもいいだろう。
もちろんこうした意見を述べるためには、その前提として「何が黒なのか」、「何が白なのか」の基準をはっきりさせなければならないのかも知れない。そしてその基準を私はここにきちんと示すことなどできないでいる。ならばこうした議論そのものが無意味ではないかと言われるならば反論は難しいかも知れない。
私はどんな人も「灰色」なのだと思っている。だから投稿者の言ってることが言葉通りの意味だとするなら、清潔と灰色の区別は結局程度の差でしかなく二者択一の根拠にはならないのではないかと思っているのである。
ただそのことよりももっと気になったのは、この投稿者の持つ依存の思いである。この投稿のきっかけは民主党の代表選挙であり、その結果は民主党が与党になっている現在の情況の下では我国の総理大臣を決めるための選挙でもあることを間接的に示している。つまり日本の政治や舵取りを誰に任せるのかを決めるための選挙でもあるのである。
そこのところに投稿者の意見には大切な視点が抜けているのではないかと思ったのである。それは政治を主導するのは誰かとの視点である。
「寄らば大樹の陰」は日本人の持っているどうしょうもない性質の一つなのかも知れない。日本がアメリカの核の傘に入っているのも、もしかしたらそうした性質の表れかも知れない。そこには「自立」だとか「独立」みたいな気概はほとんど見ることができず、努力もしないままにただ安心や安寧だけを依存の下に求めようとするエゴが見え見えのような気がする。
こんな言い方をすると観念論に過ぎないと笑われそうだが、政治の主体は国民であるはずである。もちろんそうした主体の意思は選挙と言う形で示すしかないのかも知れないし、それはそのまま選挙の結果に我が身を委ねることであるのかも知れない。それでもこの「灰色の有能」を望む背景からは「黙って任せることですべてうまくいく人が望ましい」みたいな依存体質が色濃く匂ってくるように思えてならない。
「どんな人間も灰色だ」と私は言った。だとすれば、選ぶこともまたその灰色の中からしか見つけるしかないのかとの反論を受けるかも知れない。私は敢てそうだと言おう。ただそれでも灰色にも濃淡があるのだから、少しでも白に近い方を自分の目で選ぶのが国民としての正しい姿勢なのではないだろうか。
私にはそもそも、「清潔」に無能を重ね、「灰色」に有能を重ねる発想そのものが、自らの意見を発現する以前に結論ありきとするどこか独断なり偏見を秘めているように思えてならない。「清潔な無能」と「灰色の無能」、「清潔な有能」と「灰色の有能」、「清潔な有能」と「灰色の無能」などなど、組み合わせはいくつもあるけれどそれは単なる言葉遊びになっているのではないだろうか。この投稿者はどうした基準を用いて「清潔と灰色」、「有能と無能」の線引きを決めたのだろうか。まさかに自分の好悪や我が身に及ぶ利益の有無によったものでないことだけは祈りたいこと切である。
2010.9.27 佐々木利夫
トップページ ひとり言 気まぐれ写真館 詩のページ