つい先週のNHKテレビ地方版の「北海道クローズアップ」(2010.11.19、19時30分)は「北海道のハンセン病〜知られざる”差別”の歴史〜」と題して、ハンセン病で隔離された人たちに対する世間の偏見による悲しみを特集していた。そうした偏見や差別が患者やその家族にどんなに消せない傷を与えたかをこの特集は30分番組ながら一生懸命に伝えていたように思う。また担当記者も半年以上もの期間をかけて関係者に追跡取材するなど、いまだに解けないままになっているこの病気に対する偏見への呪縛を丁寧に捉えていたように思えた。

 そうした丁寧な取材の事実を認めながらも、私にはこの番組の取材方針、もしくは番組放映の編集の仕方などにどこかしっくり来ないものを感じてしまったのである。
 だからと言って私はそうした偏見や差別の報道を間違いだと言うつもりも、患者の受けたであろう痛みを偽りだとか誇張だなどと言うつもりもない。それにもかかわらず、この番組は患者やその家族の痛みに力点を置くあまり、もう一方の差別した側の思いをまるで伝えていないように思えたのである。

 とりあえずハンセン病の概要に触れておこう。この病気は古くから「らい病」とも呼ばれ、1873年の「らい菌」の発見者の名前をとって「ハンセン氏病」、「ハンセン病」と呼ばれるようになった感染症である。聖書にも記述されているから世界各地に昔から広がっている伝染病だといってもいいだろう。伝染力は非常に弱いとされているが、1943年頃に特効薬が開発されその後の対症療法などの進歩もあって発症者に対する治療は進んでいて、その実績は完治にまで届いていると言われている。ただそれでもワクチンの開発は実現されておらず、予防することは困難だと言われている。つまり、感染しても治るけれど予防は難しいということである。

 伝染の拡大は主に患者との接触による飛沫感染とされ、潜伏期は3〜5年、中には10年の例もあると言われている。死亡例はほとんどないようだが顔や手足なども含めて皮膚の崩れなど外見がひどくなるケースが多く、しかも長く治療方針が確立していなかったことによる難治性などが差別や偏見の背景になってきたようである。

 こういう状況が何十年も前から社会的な背景として存在していたことを私たちはまず知っておく必要がある。病気に対する故なき偏見が昔から存在していたことを否定するつもりはない。かつては結核が遺伝病だとされた時代だってあったのであり、らい病もそうした系譜に連なるものであったことも事実であろう。

 だが考えても欲しい。いかに感染率が低いとは言え、らい病は伝染病なのである。しかも伝染の原因は患者からの飛沫感染であり、感染した場合には現在はともかく数十年前までは治療方針すら確立していない不治の病だったのである。そうした状況の下では「患者には近寄るな」はまさに感染を防ぐ唯一の手段ではなかっただろうか。そんな時に、感染率の低さなどなんの慰めになるだろうか。しかも感染した場合の症状は悲惨である。治療薬の発見は遅れ、現在にいたるも予防のためのワクチンすら実現していないのである。

 そうした時代に「患者に近寄るな」こそが伝染を防ぐ唯一の手段だと多くの人が信じたことを誰が責められるだろうか。1907(明治40)年、今から100年余も前にらい予防法が制定された。少なくとも当時としては伝染する不治の病である。1931(昭和6)年、この法律の改正は強制隔離政策を取り入れた。患者を特別な施設に強制的に収容して患者以外の人々との接触断つのである。爾来65年、1996(平成8)年にこの法律が廃止され、らい病が一般病院での普通の病気として取り扱われるようになるまでこうした施策は生き続けてきた。もちろんそうした廃止のタイミングなり時期が遅かったと非難することはできるかも知れない。

 でも「患者に近寄るな」が唯一の正しい感染防止策だった時代を経て、人が患者やその家族との接触を避けようとした行為を単純に差別だの偏見だのと非難してしまっていいのだろうかと私は思う。
 もちろん接触や交流を拒否された患者や家族の悲惨さを否定するつもりはない。そしてその差別は単に伝染防止としての範囲を超え、人種差別的な意味にまで広がって行っただろうことも想像に難くない。場合によっては潜伏期の長さから伝染病ではなく遺伝ではないかと疑われ、家系などへの偏見、つまり親戚などとの付き合いの拒否などにまでつながっていったケースだってなかったとは言えないかも知れない。

 それでも私は少なくとも「移るかも知れないぞ、だから患者には近寄るな」は、治療方法や伝染の強さなどに関する情報が正確に伝わらなかった時代にあっては、やむを得ない選択ではなかったかと思うのである。しかもそうした傾向はあらゆる伝染病に対して現在でも続いているのではないかと思うのである。

 例えば私たちは地下鉄や電車などで咳き込んでいる人には近づかないように心掛けるのではないだろうか。昨年、新型と呼ばれるインフルエンザが世界的に流行した。WHO(世界保健機構)はその危険度をフェーズ5まで拡大し(別稿「新型インフルエンザ・不安と安全」参照)、その後警告は最高ランクのフェーズ6であるパンデミック(世界への感染拡大)にまで及んだ。そうした世界的混乱、そして日本への感染が現実のものとして確認されたとき、政府が検疫や治療に力を入れたのは当然であるが、同時に患者を隔離して感染の拡大に対処したことを忘れることはできない。そして同時に一般国民には「手洗いやうがい」に加えて「人ごみに近づかないように」とPRしたこともである。

 こうした事実は患者の隔離はもとより、「人ごみに近づかない」こともまた伝染の拡大を防止するために必要な手段だと国が認めたことを示しているのではないだろうか。これほど医学の発達した現代においてすら、伝染病の感染拡大に関して「患者に近づくな」は正しい選択だと信じられているのである。

 らい病に関して、行過ぎた差別や偏見があっただろうことを否定はしない。だが少なくともその背景に「患者との接触を避ける」ことが感染の拡大を防ぐ唯一の正しい選択であったこともまた、同時に理解しておく必要があるのではないだろうか。

 差別を受けた者の受けた差別の全部を悲惨な正義と置き、差別した者の差別の行為や感情の全部を悪として位置づけることは分かりやすい構図を作る。そしてそれは、らい病にかかわった人(差別した側、された側を問わず)だけでなく、らい病など単なる知識としてしか知らない人たち、そうした病気のあったことすら知らなかった人たちにも同じように分かりやすい構図として伝わっていく。

 私にはそうした正邪を一刀両断で分けてしまうような物事の考え方に、どこか違和感が残るのである。そしてそれは最近の「いじめは悪い」ことの風潮が、「人が人を好きになることは正しいが、嫌いになることは悪いことだ、更には好きでも嫌いでもないことまでもが悪だ」みたいな考え方にまで拡大していっているように思えてならない。

 番組制作者やマスコミだけの責任ではないだろうけれど、これだけのエネルギーを投じて追求した「北海道クローズアップ」にあっても、どこかでワイドショーみたいな好悪の感触に毒された偏った編集になってしまっているように思えたのである。だから見終わってしまってから、どこか少し後味の悪さが残ったのであった。それは決して差別した側を弁護するものではないと、私は思っているのだが・・・。



                                     2010.11.22    佐々木利夫


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ハンセン病と偏見