2月7日は北方領土の日になっているのだそうである。この日がこうした特別の日になっているのは、1855年(安政元年)に日本と帝政ロシアとの間で最初に国境の取り決めが行われた、いわゆる日露和親条約(下田条約)の締結日であることに起因している。北方領土については昨年もここに書いたから(別稿、
北方領土、参照)ここではなるべくそれと重複しないようにしたいけれど、北方領土問題とはつまるところ「北方領土を日本に返せ」に尽きるから同じような視点にはなるかも知れない。
領土返還要求の経緯などについては前述した別稿を参考にしてほしいけれど、またぞろマスコミは「高齢化した旧島民の主張には切々たるものがある」であるとか「父祖の地を返せ」を繰り返すばかりである。私はその報道の視点、旧島民の視点にどこか納得できないものが残ってしまうのである。
それはそうした主張が、「かつて旧島民が北方領土と呼ばれる島々に住んでいた」との事実からスタートするからである。旧島民の高齢化の報道はまさにそれである。「昔、私が住んでいた土地だ」、「私が生まれた土地だ」、「行くこともできないまま遠く父祖の島影を眺める苦しさ」・・・、そんな言い分が次々と続くからである。
「島を返せ」と言うのなら、それは古老の嘆きを繰り返すことではないと私には思えるのである。島が自分の土地だと言うのなら、それは所有権の主張だと思うのである。国が主張するならそれは領有権の主張であり、それは原始取得が個人なり国家に存在していることの国際的な主張だと思うのである。
原始取得が「無主物占専」(持ち主のないものは、一番最初に見つけた者の所有になること)にあることに関してはすでに別稿の「北方領土」で触れたところであるが、その辺の理屈による説得がこんなにも北方領土問題が長い間主張されていながら今ひとつきちんと説明付けられていないことに遠因にあるのでないかと思えるのである。
私にはどうしても「島を返せ」と叫ぶ人々の主張の中に、原始取得の主張が一つもないことにどこか疑問を抱かざるを得ないのである。いやいやそれよりも、そもそも原始取得など主張できるほどの根拠など最初からなかったのではないかとさえ思えてならないのである。
この領土問題は日ソ間にわたるものである。一つには領土とは原始取得ではなく、国家間の取引によるものだとの定義も可能である。つまり「力づくで決めたもの勝ち」または「何らかの取引で国境を変更する」などがそうである。前者の例はヨーロッパなどを中心とした戦争での祖国をめぐる多くの話題から知ることができるし、後者の例としては日本でもつい最近沖縄が日米繊維交渉に関連して佐藤栄作首相とアメリカニクソン大統領との話し合いなどからも知ることができる。
まあ、沖縄の例はアメリカの占領下にあったというだけで、領土そのものは日本に帰属していたから、本来の意味での領土問題とは少し違うかも知れない。つまり所有権は日本にあるけれど占有権はアメリカというような、民法における占有改定に類似したシステムに組み込まれていたと言えるのかも知れない。
ともあれ「発見の早い者勝ち」みたいな理屈が領土の本質にはあるようだけれど、現実はなかなかそうはいかないようである。そうした理屈は日本人そのものが否定しているからである。日本の領土と言うためには少なくとも日本人が北方領土を最初に発見したという前提が必要なのだろうけれど、そうした宣言のためにはその「最初に発見した」当時、その土地が「無主」、つまり先住者のいないことが要件になるだろう。
他人が居住している土地に入り込んで、勝手に「以後、この地は我国の領土とする」なんぞと宣言したところで、その宣言が有効になるとは思えないからである。
動物にも縄張りがあるからと言っても、そこまで領土の概念を拡大しようとは思わないけれど、少なくともその地に人が住んでいたのなら、後から移った者がそれを我が物とすることはできないだろう。
仮にその地に住んでいた者には「所有権」であるとか「領土」と言った意識がなかったとしても、そうした無知を根拠として移住者が自らの所有権を主張することなど許されることではないのではないのだろうか。
私は千島列島の歴史についてほとんど知らないけれど、それでもアイヌなりギリアークなどと呼ばれる人たちが日本人が千島列島へと歩みを進めたときには既に住んでいたのではないだろうか。
もしそうした先住民族がいたのだとすれば、日本人の領土の主張はまず最初に暴力による支配か、もしくは領土意識の希薄さにつけこんだ一方的な宣言と言うことになる。
そうした主張は決して、父祖の地、それもほんの数十年、百数十年と言った期間の話ではないと思うのである。そうした僅か前に日本が北方領土に住んでいたということと、そのことが日本固有の領土であるとの主張とは何の結びつきもないからである。
「私が子供の頃住んでいた」、「私の父の生活の地であった」、「ここに郵便局があって、その隣に〇〇商店があった」、「ここに祖父の墓があり、ここは私たちの畑だった」などといくら繰り返しても、それは単なる情緒でしかなく、領土としての所有権の主張とは相容れないのではないだろうか。もしそうした情緒による主張を認めるなら、現に今北方領土に住んでいる多くのソ連人にも同様な主張を認めなければならないことになるだろう。
確かに下田条約で日本と帝政ロシアは北方領土の外側に国境を定めた。しかしその後の日ソ共同宣言で日本政府は現在主張している四島返還に代えて二島返還に合意していたとも言われているし、また1875年の樺太・千島交換条約では千島諸島を日本とロシアの共同統治とした経緯もある。そして日本を敗戦に追い込むための1945年のヤルタ協定(日本が敗北した場合は千島列島をソ連へ引き渡す)へと続いた。1951年のサンフランシスコ講和条約は日本の千島列島放棄を掲げ、1956年の日ソ平和条約は北方領土についての妥協点を見出せず締結されないままとなった。
確かに北方領土は日ソで未解決の状態にあるのかも知れないけれど、私にしてみるとどちらかと言うとソ連の言い分のほうに理があるようにさえ思えてならない。少なくとも「父祖の地」と呼ぶような情緒的な主張を繰り返す手法からでは、その地を「日本固有の領土である」とするような迫力は生まれてこないように私には思えてならないのである。
2010.2.18 佐々木利夫
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