毎日の事務所への通勤にはいつもAM、FM、TVの1〜12チャンネルが受信できる3バンドのポケットラジオがお供である。朝は8時半頃に家を出て約50分、帰りは6時少し前に事務所を出て同じようなコースを自宅へと向かう。時間帯が同じなのだからその間に聞く番組も毎日それほど変わることはない。

 今朝(6.28、月曜)の番組はNHKFMの「気ままにクラシック」であった。男女2人の掛け合いによる比較的軽いクラシック番組であり、時にその掛け合いに飽きて他の番組に回すこともあるけれど、比較的聞くチャンスは多いと言える。その中にリスナーから投稿された写真にコメントやふさわしいと感じたクラシックの小曲などを添えるコーナーがある。今朝の写真は投稿者がどこかの山へ3歳の女の子と一緒に登ったときの夕焼けの風景らしかった。「あっ、赤いイルカが飛んでいる・・・」、その子がその時にそう叫んだと投稿者の一言が添えられていたようだ。
 ラジオだから写真は見えないが、司会の男が相棒に向かって「イルカ、見えますか」と聞いた。女(オペラ歌手、幸田浩子)は、「大人になってしまったんですね・・・」と少し笑いながら応えていた。男にも女にも、夕焼けの写真に赤いイルカの姿は見えなかったのである。

 その会話を聞きながら私は思ったのである。そうなのかも知れない、大人になるってことはそうした多くの感じる心を失っていく過程なのかも知れない・・・、そんな風に感じたのである。
 大人になるってことは、多くの人たちとの付き合いだとか、男と女のことだとか、仕事だの、結婚だの家庭や生活や老後のことだのと山のように新しい様々を抱えることでもあるのだから、夕焼け雲がイルカに似ていると感じることなんぞ別にどうってことはない。だからそんな気持ちを忘れてしまったり、感じる心を失ってしまったりしたところで生きていくことになんの支障もないだろう。

 それがこの頃、そうした感受性を失っていくと言うのは、もしかしたらとんでもなく大切な思いの喪失につながっているのではないかと感じるようになってきた。それは私自身がこうして70歳と言う老境に届き、結果として「これ以上大人になる」という必然から開放されたことによるのかも知れない。大人になることと年齢を重ねることとは同じことなのだとこれまでの私は無意識に信じ込んでいたけれど、孫が生まれ退職して、子育てや仕事から解放され、そこそこ食うに心配がなく互いに老いる夫婦二人だけの生活が当たり前のようになってくると、この二つは同じではないとどこかで気づくようになってくる。

 こう言っちまうと老いの繰言そのものになってしまうかも知れないけれど、恐らく私にも夕焼けに泳ぐ赤いイルカの姿など見えないことだろう。だからこそ子どもの心を失うってことは大人になるために得ることよりももっと大切な何かを失うことではないかと思うようになったのである。
 「何かを得るってことは、別の何かを失うことだ」とは良く聞く言葉である。特に私のようにキャパシティがそもそも小さな人間にとってみれば、そうでもしなければ新しいものを取り込むことなどできなかったかも知れないからである。

 でもそうして獲得した大人になるための様々は、本当にその見返りとして子供の心を失ってしまってもいいほど価値あるものだったのだろうか。
 大人としての価値観には様々なものがあるだろう。他人(ひと)と妥協しながら付き合っていくこと、金を稼いで安定した生活を続けていくこと、偉くなっていくこと、酒を飲んだり旨いものを食うこと、旅行に行ったり麻雀やパチンコで遊んだりすることなどなど・・・。もちろん大人になるってことの意味がそんなことだけだとは思わないけれど、仮にそんなことの繰り返しだったにしても、それはそれで大人として生きていくためには必要そして大切なことであるには違いないだろう。だとすれば失ったであろう幼いときの思いとそれを比較するのはふさわしくないのかも知れない。

 それでも私は大人になることと引き換えに失ったかも知れない様々な思いを前にして、もしかしたらそれはとてつもなく貴重な宝物であったように思えてならない。そうした思いについては数年前にもここへ書いたことがあるけれど(別稿「子供の詩」参照)、今日の夕焼け空に泳ぐ赤いイルカの話は、鈍感になっている己の今を改めて思い起こさせることになったのであった。



                                     2010.6.28    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



赤いイルカ