臓器移植については繰り返しここへ書いてきた(別稿「気になる臓器移植(1)」及びこの文中で引用しているエッセイ参照)。それでも移植に関するニュースを聞くたびにどこか気になってしまうのは、それだけこのテーマが私の中できちんと消化されていないことを示しているのかも知れない。
 最近気になったのは移植された患者が相次いで死亡していること、そしてそれが脳死から移植まではあれほどニュースとして取上げられているにもかかわらずその死についてはほとんど報道されていないこと、更には移植を行った病院や移植についての情報をほぼ独占している日本臓器移植ネットワークなどがこぞって法律に規定がないなどの理由で移植された患者の死を公表していないことについてであった。

 今年(2010年)7月、改正臓器移植法は本人の意思が確認できない場合でも親族の了解によって移植が可能になる途を開いた。そして改正法の施行と同時に移植手術はその数を増してきている。ただその反面、9月に東北大病院で肺移植を受けた10代の女性が10月8日に、7月に岡山大で肝臓の移植を受けた40代の男性が10月12日に、そして10月17日には腎臓と膵臓の移植を受けた50代の女性が死亡していることをネットで知ることができた。
 これに対して病院側やネットワークでは、いずれも医療事故や術後管理に問題があったわけでもなく、公表が法的に義務付けされているわけでもなかったとして公表していない。

 提供する本人も含めて、人が臓器移植を承認する過程には様々な思いがあるとは思う。だから中には純粋に臓器移植の必要性を科学的に理解した上で納得し承認している者の存在を否定はしない。ただ私にはそれが自分の臓器に対してにしろ、はたまた両親が我が子の臓器の移植を承諾する場合などにしろ、多くの場合その根っこにあるのは移植された臓器が「他人の中で生き続けていくこと」、つまり移植を受けた患者がこの移植によって生き続けることにあるではないかと思うのである。
 そして臓器移植を促すであろう医師や関係者の説得の中にも、「脳死者個人としては死ぬことになっても移植された臓器だけは他者の中で生き続け、移植された患者自身もまた同時に生き続ける」ことが大きな比重を占めているのではないかと思うのである。

 私にはそうした提供された臓器が他者の中で生き続けること、死が生に変わることへのすがりつくような思いが、この臓器移植そのものに対する大きな背景になっているのではないかと思うのである。

 もちろんその前提に、死の判定が脳死と言う形であるにしろ「己の死」なり「親族の死」があることは誰もが理解することであり、そこで認定された死と移植を受けるであろう者の生存とはなんのつながりもないことを知った上での移植への承諾であっただろうことを否定するつもりはない。
 それでも私は他者の中で生き続けるであろう「私の臓器」や「我が子の臓器」が、「私が生き続けること」、「我が子が生き続けること」と同視してしまうような思いを、たとえ錯覚だと断じることが理論的に可能だとしても感情までは否定できないように思える。

 恐らく臓器提供を健康な時の本人が承認していたとき、自らの脳死に合わせて都合よく適合する患者が現われる保証などなく、移植手術そのものだって100%成功するとは限らないことくらい理解した上でドナーカードに〇印をつけたであろうことを否定したいとは思わない。また親族に移植の承認を求める場合でも、医師や関係者は、手術が移植された臓器が他者の体内で本来の機能を発揮することを保証するものではないことについても恐らくきちんと説明していることだろう。
 だとすれば、仮に移植が成功しなかったところで「既に提供者なり承認した親族はその可能性を知っていたはず」なのだから、移植を受けた患者の死を承諾者へ知らせることなど不要だとの理屈が成り立つかも知れない。

 だが事前に納得していたことや説明を受けて納得したことと、移植された患者の死を知らなくてもいいこととは直接結びつくものではないと私には思えるである。しかもそれは臓器移植とは移植に係わった当事者だけの問題に限られるものでもないと思う。それは単に当事者間における移植された臓器がその目的を果たせなかったことだけを限定されるものではなく、臓器移植そのものに係わる基本的なテーマではないかと思うからである。

 つまり移植の不成功は単に「他者の体の中で生き続ける」と信じた提供者やその親族に対する裏切りと言うか信頼の喪失と言った限度に止まるものでなく、これから自らの臓器提供を承認しようとしている者、これから移植を承認するかも知れない家族、更には知識としてしか理解していない多くの人たちに対する義務ではないかとも思うからである。

 もちろん「臓器」を単なる「物」として理解するならこんな面倒くさい考えなど不要である。脳死と同時にその人は死んだのであり、残された臓器は単に「利用できる物(ぶつ)」であり、「使い捨ての物体」としての意味しかないのだとするのなら、それは単に臓器提供を受けた患者が死亡したとしても提供した側とは何の関係もないからである。
 だが、もし仮に「私の、そして私の息子の臓器」が、誰かは知らないまでも他者の中で生き続け、そのことを通じて「私や、私の子」が生き続けていることと同視できるとの思いが、提供した者、提供を承諾した者のなかに潜んでいるのだとしたら、ことはそんなに単純なものではない。

 そんな思いが提供する側に存在しているのだとしたら、提供を受けた者の死は提供した臓器の死であると同時に提供した者の確実な死を意味することになってしまうと思えるからである。
 そのとき、提供した本人は既に死んでいるのだから今更提供を受けた者の死など理解できるはずがないとして放置してもいいのだろうか。そして更に、臓器提供を承認した親族はその提供した臓器が無意味になってしまったこと、自らが悩みながらも承諾書にサインしたこととの意味を、これからどんな形で身の裡に抱えたまま生き続けていけばいいのだろうか。

 そしてもう一つ、私には臓器移植による移植を受けた者の死は、自己矛盾めいた感じがしないではないけれど、移植を受けた患者の死を早めた可能性はなかっただろうかとの思いから抜け切れないでいる。もちろん移植をしなければ、その患者はいずれ確実に死んだかも知れない。でも例えば移植をしないことが、目の前に迫った死の恐怖にさいなまれながらだったかも知れないけれど、移植をした場合よりも長く生き延びる可能性はなかったのだろうか。そうした可能性(移植の失敗や移植された臓器がきちんと機能しないことなど)は恐らく事前に患者にはきちんと説明し、了解を得ていることだろう。でも仮にもせよ移植によってその患者の死が早まるような事実があったとするなら、そうした事実は臓器移植の中でどんなふうに捉えていけばいいのだろうか。

 だから私は、こうした「臓器提供を希望した本人」、「移植を承諾した親族」、「移植を受けた患者」、「これからドナーカードに〇印をつけようと考えている健康人」、「受けようと考えている患者」、そしてそうした人々を取囲んでいる多くのスタッフのためにも、そしてこれから臓器移植について考えようとしている多くの人のためにも、その現実をきちんと理解させる必要があるのではないだろうかと思うのである。そしてそれは単に臓器移植で人の命が救われるとのメッセージだけでなく、移植が失敗した事実なども同じように知らせ、公表すべきではないかと思っているのである。

 こうした思いは日本人に特有なのかも知れないけれど、「臓器移植は正義」だとする考えが移植を希望する患者やその死を前にした家族の思い、そして提供が可能と判断された者の家族などを背景に余りにも強迫めいて伝わってきているように思えてならない。私にはこの問題は提供する側も提供される側も含めて個々人の心の中でもう少しゆっくりと熟成させていかなければならないように思える。そしてそのためにはすべての事実を広く公開する環境がまだまだ必要になっていくのではないかと思うのである。
 臓器移植を否定するつもりはないけれど、「たった一つの命」と「たった一つの死」とはどこかで切れずにつながつている・・・、と私は思いたい?(思いたがっている?)・・・のである。



                                     2010.11.5    佐々木利夫


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移植を受けた患者の死