臓器移植についてはこれまで何度もここへ書いてきた(別稿「ドナーカード」「発生生物学」「臓器移植に抜けているもの」「脳死と死と命」、「自らの存在とは」、「不死への願望」、「理解できることの意味」などなど参照)。それにもかかわらずまた書きたいと思いついたのは、きっとまだ私の中で臓器移植そのものへの思いがきちんと整理されていない証拠なのだろう。私の中ではいまだに「自らの死」、「親しい家族の死」、「他人の命」、そして「臓器は物なのか」などと言った基本的な問いかけが雑然と未整理のまま混在しているからなのかも知れない。

 先月、つまり2010年7月に昨年7月改正された臓器移植法が施行された。この改正については既に昨年ここへ発表したところだが(別稿「生き返る死体」参照)、その改正法が適用される事例一号が数日前(8月9日・月)に発生した。第一号ということもあってマスコミはいつも通り大騒ぎしているけれど、そのマスコミの騒ぎ過ぎに触発されたこともあって、またぞろ気になりだしている。

 今回の事例における臓器提供者(いわゆるドナー)は「20歳代の交通事故に遭遇した男性であり、提供の意思を書面では示していないものの家族には万が一の場合は提供していいと話していたこと、家族も本人の意思に従うことを了解した」として脳死判定を経て臓器移植にいたったものである。

 改正された臓器移植法の特徴は、脳死と判定された本人が生前臓器提供についてどう考えていたか不明な場合でも、家族が承諾すれば手続きを進めることができるとする点が盛り込まれたことにある。
 つまり本人の意思が不明でも、家族の了解があれば次のような手続きを踏むことで臓器提供の途が開かれるのである。

 「病気や事故で入院」→「臨床的な脳死状態になる」→「医師から家族に症状の説明」→「医師らから臓器提供について説明。もしくは家族が提供の意思を表示」→「日本臓器移植ネットワークのコーディネーターが家族に臓器提供について説明」→「家族が法的脳死判定と臓器提供について書面で承諾」→「計2回(6時間以上の間隔)の脳死判定」→「2回目の法的脳死判定の終了時が死亡時刻になる」→「臓器摘出、移植手術」(2010.8.10、朝日新聞から引用)。

 私はこのケースに関する報道を見ていて、その背景にある提供者やその家族の思いに私自身の気持ちをストンと重ねることがどこかできなかったのである。

 @ その一つ目は「提供者本人の意思」である。もちろん改正法は「本人の意思が不明な場合」でも家族の承諾があれば移植手続きを進められることになっている。だから理屈では本人の承諾が前提とされるわけではない。ただそうは言っても少なくとも「自分の臓器の提供はしたくない」との意思がないことは要件とされるだろう。その点から言うなら今回の事例では、「意思不明」より一歩進んだ「口頭で提供の意思を家族に示していた」にまで進んでいたと言える。

 私には、その本人の意思がどれほどの強さを持つものであったのかとの疑問が湧いてきたのである。臓器移植に関しては、移植技術の発達に伴い今ではそれほど珍しくなく話題に上ることだろう。家族で、仲間で、職場でなどなど・・・。時に食事しながら、時に酒飲みながら、時にテレビを見ながらの一言などなど・・・。
 ただそうしたとき、果たして人はどこまで真剣に臓器移植について考えて発言しているだろうか。口から出まかせの嘘を言っているとは思わない。だがそうした場面における臓器移植の賛否の意見とは、本当に「自分が脳死になった時に、自分の心臓を誰かのために移植する」ことまでをきちんと考えて話しているのだろうか。もちろんそうした人がいないなどと言うつもりはない。本当に臓器移植の意味が分かった上で自らの心肺の摘出を承認している人ももちろんいるだろう。
 だが私には、そうした場面での話題に乗っかった人たちの意見、例えば今回のような「俺の心臓、提供してもいいよ」みたいな会話は、「自分の死に対するきちんとした理解」のないままに発言された、抽象的な意見ではないかと思えてならないのである。

 「万が一の場合は提供していい」と言ったと家族は語る。だがその時に話された提供者の意思が、本当に「確信を持ったゆるぎない判断」だったと果たしてどこまで言えるのだろうか。家族団らんの話題の中での、その場の雰囲気に合わせただけの行きがかりの判断だったとは考えられないだろうか。
 また仮にその時はゆるぎない判断だったとしても、人の心は時に揺れ、時に迷うのではないだろろうか。こうしたテーマは、日常とは無関係で非現実的な「己の死」とそして一方で「人は必ず死ぬ」こととのはざまで交わされる不確定な会話だからである。

 もちろん家族が本人がかつて示した意思にすがりたい気持ちの分からないではない。でもその一言を私には「本人の希望だった」の根拠には使ってほしくないと思うのである。これから述べる私のもう一つの思いにこのことを重ねるなら、それは大きな後悔を家族の心に残すような気がしてならないからである。そしてその後悔は、仮に「本人の希望に反して提供しなかった」場合の後悔よりも、ずっとずっと深いのではないかと思えてならないからである。

 A さてもう一つの問題提起に移ろう。それは家族の承諾の意思の確信の程度である。本当に家族の意思を確定的なものとして臓器移植を決定してもいいのだろうかとの疑問である。もちろん、説明を受け、納得し、承諾の書面にサインをする。外形的にはきちんと家族の確定的な承諾の意思がそこに示されていると言える。だがそこには家族も気づかない移植への誘導や落とし穴が正義や善意の衣にくるまれて潜んでいるのではいないだろうか。

 交通事故、瀕死の状態で病院へ運び込まれる息子、信じられないまま駆けつける家族、血まみれの姿、取囲む医師や看護師のあわただしい動き、見守ること祈ること以外何一つできない両親、願いはたった一つ「生きてくれ」だけ。だがそうしたひたすらな願いも空しくやがて前述した手続きの2番目の「臨床的な脳死」が医師から告げられる。人工心肺のせいかも知れない、はたまた点滴のチューブから落ちる薬の効果なのかも知れない、横たわる我が子の体はまだ温かく、枕もとの計器は心臓がまだ動いていることを伝えている。呼べばすぐにでも目を開けて応えてくれるような、そんな気さえするベッドの姿。だが医師は死んだと言う。

 そんな時に親は、たとえ臨床的な脳死を告げられたとしても自らの意思で息子の臓器提供を考えることなど決してないだろう。ましてやその場で臓器の提供を医師に希望することなどないのでないか・・・と私は思う。臓器提供の話は間違いなく医師の側から出されるのではないだろうか。

 なぜなら、臓器移植は時間との闘いでもあるからである。脳死とはやがて来る心臓死(私たちの誰もが理解できる呼吸が止まり心臓が鼓動を止める死)への過渡期であり、その過渡期を過ぎてしまった臓器は移植には利用できないからである。そうしたタイムラグは臓器によって異なり、例えば眼球の角膜や骨などは心臓や肝臓などよりも余裕があると聞いている。それにつけてもタイムラグはどんな場合にも僅かな差として立ちはだかっており、その時間を過ぎることは移植不可能を意味する。移植を待つ患者は「生きている心臓」でしか助からないのであり、その心臓は心停止とともに「死んだ心臓」になってしまうからである。


         少し長くなりそうなので、稿を改めて続けたいと思います。「気になる臓器移植(2)」へ



                                     2010.8.11    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



気になる臓器移植(1)