間違って十三夜を二日前倒しで錯覚していたことについては20日ほど前に書いたばかりである(別稿「十三夜」参照)。これはその後日談ではなく、その中で書いた飲み仲間との上弦の月の解釈についての話しである。先のエッセイでは上弦・下弦について私が正しいのか仲間の解釈が正しいのか、曖昧なままでいいではないかとして正解を追及しないと書いた。

 とは言っても中途半端なままではどうも落ち着かない。それに著名な作家の小説(時代劇だっただろうか)の中で剣豪が月を眺めながら呟く上弦だか下弦のセリフが科学的に誤りだと指摘した文章をどこかで読んだことを思い出し、なおさら自分の中で納得したいと思うようになってきた。

 それで飲み仲間との決着とは別に、この問題を少し調べてみることにした。さいわい、インターネットは情報の宝庫であり、検索サイトの空欄に「上弦の月」とでも入力すれば、たちどころに私の悩みは解決するだろうことは目に見えている・・・・・・はずであった。

 もちろん数万単位で情報が瞬時に表われたことは言うまでもない。その全部にアクセスするまでもなく、懇切丁寧な解説も、写真も、太陽と地球と月の位置を表した図表も、最初の数項目だけで必要なだけ入手することができた。
 そして第一に愕然としたのは、私の上弦・下弦の解釈が根本から間違っていたことであった。私は欠けている月を弓に見立て、その陰の部分に弦を張るのだと考えていた。だから月の形が三日月形をしている場合の全部について、上弦か下弦かのいずれかであると思っていたのである。ところがどうも違うらしい。

 ところが上弦も下弦もともに三日月に弦を張るのではなく弦も光る月に含めての状態、つまり半月そのものを指すのらしいと分かった。月は新月と呼ばれる太陽と方向が一致して目に見えない状態から少しずつ太っていき三日月を経て半月、そして太陽と対極に位置する満月になる。そしてそこから少しずつ痩せていって半月となり再び新月へと戻る。その周期は約29〜30日くらいだから、半月は7日目か8日目、もしくは22日目か23日目に当たり、月の満ち欠けで言う限り月に2回しかないということになる。だから、上弦の月も下弦の月も同じ月齢の月を指すのではないとするなら、ともに月に一回しかないことになる。半月が月の50%が輝いている状態だと言ったところで、7日の月と8日の月とで陰の形にそれほどの違いが見分けられるわけでもないだろうけれど、正確にはそう言うことなのである。

 ここまでは分かった。私が誤解していたことはこれではっきりしたのだから、これまでの私の記憶はしっかりと書き換えることにしよう。
 ところがこれでことが解決したわけではなかった。つまりどちらを上弦と呼び、どちらを下弦と呼ぶかの区別がつかないのである。先のエッセイ「十三夜」で私が見た月が上弦でも下弦でもないことは理解できた。「七夜」か「二十ニ夜」でないと上弦・下弦とは呼べないと分かったからである。

 それでは半月を見たとき、それが上弦の月か下弦の月かはどう判断すればいいのだろうか。言葉としては簡単である。上弦とは月の下半分が光っていて弦の部分が上、つまり上半分が暗い状態を言うのであり、下弦とはその反対を言うことくらいその名づけの由来からしてはっきりしているからである。つまりお椀のように見える状態を上弦と言い、帽子のような形の月を下弦と言うのである。そこまでも分かった。こんなことくらい幼稚園児にだって分かる簡単な図形である。

 さて私がある日の日没後に半月を見たとしよう。私は地球上でそれを見ているのだから、その時の月と太陽の位置関係は90度になっているはずである。0度が新月、180度が満月、90度と270度が半月となるからである。さてここからが頭の体操である。太陽を懐中電灯にして地球の周りを月が回っていくような図形は、理科の実験でも月の満ち欠けや日食月食などの説明でお馴染みである。月の満ち欠けで言うなら地球を真ん中においてはるか遠くに平行の光である太陽を想像し、月を8つ丸く並べる。太陽側に月を置くと地球からは光る部分が見えないので新月とし、反対側つまり太陽、地球そして月を一直線に配置すると月の見える部分全部に光が当たっているので満月である。後は真上と真下が半月であり、途中の45度の月はまさに満ち欠けの説明となる。

 ここから私の中で混乱が始まる。どうにも頭の中で月がうまく回ってくれないのである。まず第一の混乱は、昼間は月が見えないことである。時々、日中でもうっすらと見えることがあるし夕方や朝方など太陽の光が弱くなると見えることもあるので、日の出や日没の瞬間に月がいきなり姿を現すわけでないことくらい経験則上すぐに分かる。それでも「昼間に月は見えない」は月観測の原則であろう。

 ところが「夜ならいつでも月が見える」もまた誤りである。例えば満月なら夜を徹して月は空に輝いているかも知れないけれど、もしそれが三日目の月だとするなら月と太陽は僅かの差を置いて同方向に位置しているから、日没と同時に月もまた隠れてしまうことになる。そしてそれも三日月かもしくは新月三日前の月かによって日没少し前に沈むか日没少し後に沈むかが違ってくる。こうした理屈は月の出・月の入りと日の出・日の入りとの時間差はともかくとして半月においても同様である。

 私たちが月を眺めるのは、必ずしも任意の時間帯と言うわけではない。特に私のように昼間働いて夜はきちんと睡眠をとるというような生活をしている者にとっては、月との出会いが一番多いのは日没からの数時間である。朝は朝星、夜は夜星と言うような太陽中心の生活をしているわけではなく、冬ならともかく朝の空は既に月など見えない煌々たる明るさになっているからである。

 しかしそんな中途半端な月見ではあるが、多少上向き下向きの感覚はあってもその形がお椀になったり帽子になったりするような月にはお目にかかったことがない。だとすれば上弦・下弦を判断は、お椀・帽子から離れて多少上向きか多少下向きかでするしかないことになる。
 月の光っている角度と地球からの眺めの関係は、太陽、地球、月の位置関係によるまさに物理的な天体現象である。でも、その月が光っている角度は北海道が北緯45度であることと関係があるのだろうか、もし観測地点が赤道上だったり北極だったりとしたなら同じ日の月でも違った欠け具合になるのだろうか。

 それに考えていくと、例えば夕方に中天に見える半月は真夜中には月の入りになるのだが、お椀型は傾いているのだろうか、翌朝の日の出の時刻には地球の反対側にあるので見えないのだろうか。そしてそうした月の満ち欠けが満月に向かっている半月の時と、満月を過ぎてからの半月とはどんなふうに違うのか。更に同じ月齢の月でも朝と昼と夕方と夜中ではどんな風に違うのか。それはもしかしたら単に観測地の緯度だけでなく、地球の自転軸の傾きや太陽を回る地球の位置、つまり季節によっても異なるのかなどを考え出すと混乱は一層激しくなってくる。

 上弦・下弦の区別についてはネットの情報によると、朝の月によるのだそうである。それがどうして朝の月の形を基準にするのかは不明であるが、そうした判断つまり上弦の月であることは夜明けの月の形がお椀型であるときに限るとするのならそれはそれで一つの確定的な判断となる。
 でもそんなに熱心に月の形を眺めたことなどないけれど、お椀のように下半分が光っている月も帽子のような月も見た記憶のないことは前に書いた。だから上弦・下弦の呼び名は僅かに上向き、僅かに下向きであることに対応させたのだろう。

 月の形と観測地点、そして季節との関連、それがどういう風にかかわっていくのか、そんなことを頭の中で考え始め、それに日没日の出など太陽光で月が見えるか見えないかなどを含めると、私の頭はどうしょうもなくこんぐらかってしまうのである。右も左も上も下も、見えるか見えないか、影の斜め線(つまり弦)はどんな時に右上から左下へと向かうのか、それがいつ反対向きになるのか、そんなことを考え出すと私の頭は混乱する一方である。

 そして昨日(11.11)の帰り道は快晴で月が良く見え、三日月より少し太っていた。ネットで調べたところ昨日の月齢は三日月を過ぎたばかりの4.9で、あと3日で上弦の月、29日が下弦の月になると書いてあった。つまり新月から満月に向かう途中の半月が上弦の月であり、満月を過ぎた半月を下弦の月と呼ぶとある。しかもその月はつい数行前で「中天にかかる」と表現していたにもかかわらず、実は南西の上空、地上から約30度くらいの低い位置にあった。だとすればこれまでの混乱状態に更に「月の高度」という新たな発想も加えなければならなくなってきた。だからここまで書きながらも、私の頭の月の形は依然としてぐちゃぐちゃのままなのである。
 そしてそして、もしかしたら上弦の月と言うのは朝方に見ることは不可能であり、逆に下弦の月もまた私たちが夜には見ることはできないのかも知れないとも思えてくる。あぁ、月の形とは私の中でかくも幼稚さを伴ったまま複雑怪奇の中を漂っているのである。



                                     2010.11.12    佐々木利夫


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