私は4年半前の脳梗塞の発症(別稿「
我がミニ闘病記」参照)以来、定期的に病院通いをするようになっている。年に一度くらい血液や頭部MRIなどの検査をすることもあるけれど、それ以外は毎日一錠服用するための投薬の処方を受けるためである。
ところでこの血液検査もMRIの画像診断も、そして毎日一錠の服薬も、それが直接治療とは必ずしも結びついていないのである。脳梗塞の後遺症が現在でも残っているのかどうか、医者は「ない」と言っているのだから恐らくないのだろう。つまりは「脳梗塞」は完治したと言うことである。ならば何のための検査であり、服薬なのだろうか。
それは医者に言わせるとまさに「万が一」のためなのだそうである。完治しているのだから治療そのものの必要はないことになる。脳梗塞はガンのように転移したり増殖したりすることはないから、完治というのは文字通りの意味での完治である。麻痺が残っているならリハビリと言う治療を継続する必要があるかも知れないけれど、今のところそのリハビリも私には必要はないようなので、文字通り完治なのである。
それでも医者は通院し検査し薬を服用せよと言うのである。それは実は「再発の予防」のためなのである。脳梗塞には様々な原因があるらしいが、その一つにいわゆる「血液どろどろ」がある。つまり、血液がどろどろになると何らかのきっかけで血液の塊りができやすくなり、その塊りが脳の血管に詰まると脳梗塞、心臓の血管に詰まると心筋梗塞になると言うわけである。
まあ、こうした因果の説明は「風が吹けば桶屋が儲かる」の筋道と似ていなくはないのだけれど、因果の結論が「儲け」ではなく「我が命」なのだから、そんなにあっさりないがしろにするわけにはいかない。
それで定期的な検査であり、毎日の「血液さらさら」のための服薬ということになるのである。もちろんそれで今後絶対に脳梗塞が発生しないのかと言えばそんな保証はない。単に「検査をしておけば万が一の場合安心でしょう」であり、血液がさらさらになる薬を飲んでおけば「万が一血液の塊りができるような状態になっても固まらないかも知れません」とのことなのである。
冗談めかしに医者に、「それじゃ死ぬまで通院し、薬を飲み続けなければならないのですか」と聞いたところ、にやりと笑って答えなかったのだからそう言う意味なのだろう。
かくて私は「再発の可能性」と言う一言のために、生涯をこの検査と服薬を続けなければならないらしいのである。怪我ならば「はいこれで治りました」と言われる時が必ずあるだろうし、仮に癌にしたところで例えば転移の恐れを避けるために数年間は何らかの抗癌剤を服用する場合があるだろうけれど、「しばらく様子を見ましょう」であるとか、「年に一回くらい検査に来てください。それまでは通常の(つまり薬の服用のない)生活を続けてください」になるはずである。
ところが私の場合は、永久かつ無期限の投薬が必要だと医者は言うのである。しかも現在の私にはなんの治療すべき状況がないにもかかわらずである。
ここで表題に掲げた「慣用句」の出番となる。診察が終る。もちろん何の異常もなく数分の問診のみで薬の処方箋をもらい「ありがとうございます」と頭を下げて診察室を出る。その時である。医者からも医者の傍らに待機している看護師からも、ほぼ同時に「
お大事に」の言葉が発せられるのである。
その言葉を背に聞きながら、私はいつも思うのである。医者も看護師も、その言葉をどんな意味で使っているのだろうかとどこか引っかかるのである。診察室には医者と看護師と私しかいないのだから、この「お大事に」は間違いなく私だけに向かって発せられた言葉である。
それで私は思うのである。つまり、医者は私に「何を大事にせよ」と言いたいのだろうかと、どうしても思ってしまうのである。「大事にせよ」は、一般的な例えば「交通事故が多くなっているから車に気をつけて」であるとか、「雪道は滑るから転ばないように気をつけて歩いてください」などのような注意喚起の言葉である。だとすれば医師の言葉は、私が診察を受けている「この病気」に関しての「お大事に」のはずであり、それ以外にはないはずである。だとすれば、医者や看護師は私に何を、またはどんなことを大事にしなさいと言っているのだろうか。
医者の発する言葉なのだから一番分かりやすいのか、「お体を大事に」の意味である。もちろん私にだって今はなんでもないけれど、風邪を引いたりインフルエンザに罹ったり、場合によっては糖尿病や盲腸炎になることだって今後起きないとは限らない。だとすれば「体を大事にしてください」の言葉が必ずしも私に対しての不適切だとは言えないだろう。でもちょっと待ってほしい。ここは病院である。会話しているのは友人知人との雑談ではない。例えば転勤であるとか、遠くから訪ねてきてくれた人との別れの場などでの「これからも体に気をつけてください。またお元気で会いましょう・・・」というような意味での会話ではないはずである。今交わしているのは、ある特定の疾病を巡る医師と患者の個別的な会話である。しかもその疾病は完治しているのである。
と言うことは、医者は「特定の目的」を持って「お大事に」を指示したのではないことになる。それが証拠には、これまでに医者から例えば「脳梗塞再発のために気をつけなれればならないこと」などについての具体的な指針や方法などを指示されたことなどないからである。もちろん、「毎日忘れずに薬を飲むこと」は一つの医師の判断であり指示である。だが、この「毎日忘れずに薬を飲むこと」の指示が、果たしてどこでどんな風に「お大事に・・・」に結びつくと言うのだろうか。
しかも、しかもである。この「お大事に・・・」は診察室での医師と看護師からのみ発せられるわけではない。別の窓口で診療代金を支払い終わったときの窓口担当者からも、また処方箋を渡して薬を受け取った後の調剤薬局の薬剤師からも、同じようにこの言葉が発せられるのである。あたかも「お大事に・・・」の一言は、一種の別れの言葉、つまり「さようなら」であるとか、「ご苦労様でした」と同じ意味を持つ言葉として発せられているのではないかと思えてならないのである。
まさにこれは慣用句である。もちろん慣用句がいつかその本来の意味を失って形式化していくことを知らないではない。「おはよう」や「さようなら」だって、本来は「朝早く」の出会いのあいさつであり、「さようならばお暇(いとま)申す」の武家言葉が発祥だったと言う説もある。それがスナックや芸能界では昼夜にかかわりなく単なる「今日、始めて出合った」ことのあいさつになっているとも聞くし、「さようなら」もその本来の意味を離れて単なる別れの記号に過ぎなくなっている。
つまりこの「お大事に・・・」には意味はあるけれど気持ちがないのである。前提を欠いた無機質な言葉になっているのである。例えば「血液さらさらには薬だけでなく野菜を摂ることも大切」なのであればその言葉を添えてから「お大事に・・・」と続けるべきだと思うのである。またそうでなくとも「いつも言っていることに日常生活でも気をつけて・・・」を添えるか、もしくはそうした意味を言外に含めた上で「お大事に・・・」が続いてこそこの言葉の意味が生きてくるのではないかと思うのである。
しかもこの言葉は医師と患者との対話であり、看護師と患者の会話であり、薬剤師と投薬を受ける者との間で交わす言葉である。そうした力関係の不均衡な立場にある者との会話において、しかも一方が絶対的とも言えるような決定権なり指導権を持っている場合には、言葉を発する側はもう一方に対してその言葉の持つ力なり重さを十分に理解すべきではないのかと思うのである。
そんな思いが強いせいか、私はこうした医療関係者から「お大事に・・・」と声をかけられるたびに、いったい私は何を大事にしたら良いんだろうと悩んでしまうのである。もちろん、その言葉を発する人は、少なくとも私に対しては単に別れのあいさつを話しかけているだけなんだと理解すれば足りるのではあるけれど、それにしても「お大事に・・・」には一つの明確な指示を与える意味を含んでいるように聞こえてならない。だからこの言葉が耳に入るたびに私はいつもどこかで首をかしげてしまうのである。
2010.1.15 佐々木利夫
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