映画に出てくる外国人俳優の顔がどれも同じに見えた時期があったことや、最近の若い女性の顔が似てきていると書いたのは去年のことだったが(別稿「
金太郎飴たち」参照)、最近もっと切実な現象にぶつかってしまいいささか戸惑っている。
再放送なのかも知れないが、週末の午前のテレビで「スイエンサー」と題する番組を見ることがある。自宅から歩いて事務所へ着いてシャワーを浴び、バスタオルに包まっている頃にこの番組が入るのでなんとなく毎週見続けてしまう。スイエンサーとは恐らく「サイエンス」をもじったものなのだろう。身近に起きる、例えば電話のコードはどうして使っているうちにぐるぐる巻きになってしまうのかだとか、ジャンケンで必ず勝つようになりたい、ファーストキスはれ本当にレモンの味がするのか、止まっているエスカレーターを歩くとどうして気持ち悪くなるのかなどなど、まあ多少科学的な要素の含まれないでもないが、言ってみればどうでもいいようなテーマを、専門家の意見なども交えて解明しようとする番組である。私にとっては、この「多少科学的な匂いがする」ってところに惹かているのが見続けている背景にあるのかも知れない。
ところで今日はその番組の内容について言いたいのではない。番組の進行役に若い女の子が三人、いつも参加している。その女の子たちは「AKB48」(エーケービー フォーティエイトと呼ぶようである)のメンバーだと紹介されているのだが、それについて経験した私の最近の戸惑いについて話したいのである。
私とってみれば彼女等がどんなグループに所属していようが、歌手なのか、高校生なのかにだってまるで興味がない。単なる番組の進行役の三人に過ぎないのであり、時に若い女の子らしくキャーキャー騒いだところで特に違和感などないからである。むしろこのAKB48と言うグループ名は、私が毎月ポップスなどの新曲をレンタルして自分のためにCD1枚を作成している中に最近良く出てくる名前だったから、むしろ馴染みがあったと言ってもいいくらいである。
それにもかかわらず私にはこのグループについての知識はまるでなかった。最近の歌手の名前やグループ名なんてのは、それが曲名なのか歌手名なのかの区別さえもつかないほど私の中では混乱しているから、ましてやその構成が男なのか女なのか、一人なのかグループなのかなどにもまるで気が回らなかった。グループ名に「48」と数字が入っているのだから、ちょっと想像力を働かせれば、例えばモーニング娘などのように多人数、それも48人かも知れないなどと気づいてもいいはずであるが、それにもかかわらず私の頭にはなんにも浮かんでこなかったのである。
そんな状況下で毎週のようにこの番組を見ていた。さて、ここからが本題である。そこにレギュラーとして出演しているAKB48の三人について、それほど意識して顔を見ていたわけではないのだから当たり前なのかもしれないけれど、私は毎回同じ女の子が出演していると思い込んでいたのである。だが何回か見ているうちに、おや見慣れない背の高い女の子がいるなだとか、いつものメンバーにこんな人がいたかな?、などと少し疑問が湧いてきたのである。
参加する女の子はいつも三人である。私はそれを同じ人物が三人、レギュラーとして毎回出演していると思い込んでいたのである。番組の中には自分の名前をアピールする場面もあったし、名乗りながら様々なテストに参加している場面もあったのだから、別々の三人が出ていることくらいそうした時に気づいても良かったはずである。
だがこうした場面における女の子の名前と言うのは苗字など言わず、単なる名前(それも場合によっては愛称や略称)であることが多く、それも私たちの年代には同じように聞こえる名称であることが多いこともあり、前の回の出席メンバーとは違う人物であることにはまったく気づかなかったのである。
つまりこれまで長い間この番組を見てきていて、しかも毎回同じメンバー構成だと信じてきたのに実はそれは錯覚で、少なくともAKB48と紹介されたメンバーについては見るたびに違った人物だったらしいことに突然気づいたのである。違っているかな?と気づいたきっかけは背の高さからだったと記憶しているから、少なくともその番組を数ヶ月も見ていたにもかかわらず、女の子の顔を私は見ていて見ていなかったと言うことになる。
いやいや見ていないなどということはないだろう。どんな場合だって、例えそれが番組の中で走ったり飛び上がったりする姿にしろ、何かについて話しているにしろ、その顔を見ていないなんてことはあり得ないからである。わたしは間違いなく彼女たちの顔も姿も見ていた。それも毎週のように見ていた。それもAKB48のメンバーであることを認識しながら見ていたのである。
にもかかわらず私には彼女たちの顔の違いを区別することができなかった。人の顔を区別するってことは、顔を意識する以前の本能の問題ではないかと思うのである。AとBが違う人物であると理解することは、赤ん坊が人見知りをするころからの人間に備わった、もっと言うなら動物の本能として備わった基本的な学習能力だと思うのである。私たちは異なる時間帯に見た人物を同一人か違う人物かを、例えば記憶を確かめたり学習したりして覚えるのではなく、もちろんそこには自動的にもせよ暗黙の学習があるのだろうけれど、危険を判定するための無意識による記憶だと思うのである。
それにもかかわらず私はその三人の女の子の顔を、次週の、更にはその次の週に出演している女の子の顔と区別すること、つまり別人だと認識することができなかったのである。
まあ、言ってみれば、私の年齢になってみるなら、記憶の基本は「自分と関係があるかないか」にあることは言うまでもない。地下鉄で近くに座っていたとか、道ですれ違ったなどくらいでは顔など覚えることなどないだろうし、ましてやそれが男だったとするなら直ちに記憶から消去されることは間違いないだろう。
そうした利害から離れていくにしたがって人の顔もまた記憶と忘却の間に揺れていくのかも知れないし、ましてやテレビの映像などは私の利害からは一番遠い位置にあると言ってもいいので一層記憶に残らないのかも知れない。
馴染みのスナックの女の子の顔ならまだしも、ファンでもなく私に声をかけてくれることもあり得ない丸っきり無関係なAKB48のメンバーの顔が、仮に記憶に残らなかったとしても、それはそれで当たり前なのかも知れない。だからそれは私の認知力の衰えではなく、単なる関心の違いや利害の厚薄によるものなのだと、どこかで無理に説得しようとしている自分がいる。
2010.7.1 佐々木利夫
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