名は体をあらわすと言うけれど、書かれたエッセイが著者の本来の姿を示しているとは必ずしも言えないだろう。ましてや文体から感じられる雰囲気などが著者の性格や日常生活を示唆してると頭から信じるのは間違っているかも知れない。
それでも最近、なんだかとても小気味良く感じるエッセイに触れることができて、私の文体とはまるで異質な(そんなの当然だろうけれど)ことに、その人の生き様が羨ましくなってしまった。
佐野洋子。その名を私はたった一つの作品でしか知らない。絵本童話「百万回生きたねこ」(別稿「
百万回生きたねこ」参照)の作者という、ただ一点だけからである。他にどんな著作や作品があり、どんな趣味を持ちどんな生き方をしていたのかなど、彼女に関する私の知識は皆無であった。
一つの作品であるにしろその作者として知っているではないかと言われればそれまでだけれど、「ある作品の著者」みたいなレッテルと言うのは、その作品に貼り付いている付箋みたいなもので、「個」としての人間臭さがそこから伝わってくるとは限らない。ましてやたった一冊の子供向けの絵本と言う極端に狭いジャンルからではなお更のことであり、年齢も経歴もどんな生活をしているのか、更には性別すらも含めて無色透明な存在であった。
その佐野洋子がつい先日(2010.11.5)亡くなったのを新聞報道で知った。1938年生まれだと書いていたから私の2年先輩になる。と言ったところでそのことだけで私の関心を呼ぶというものでもない。ただその訃報の中にエッセイストとの記述があったことから、「彼女の絵本に触れて多少なりとも心を動かされた縁」とでも言うかちょっと興味があって図書館の検索から2冊ばかり選んで借り出してみた(「役に立たない日々」・朝日新聞出版、「神も仏もありませぬ」・筑摩書房)。
長くなるかも知れないがその中から少し引用してみたいと思う。「役に立たない日々」はこんな風に書き出されていた。
「2003年×月×日 6時半に目が覚めた。目が覚めるととび起きる人がいるそうだが、信じられない。起きて何するのだろう。枕のあたりをバタバタたたいて手にさわった本『ベトナムからきたもう一人のラストエンペラー』(森達也)をうとうとしながら読む。私はベトナムについて何も知らない。・・・それにしても白人はひどい。有史以来ひどい。お前たち何様だ。頭がはっきりしないので腹が四分の一くらいしかたたないうちにまた寝てしまった。・・・パンがなかったので、コーヒー屋に朝めしを食いにいく。歩いて二分でついた。金さえ出せば朝めしが食える都会はすごい。・・・タバコに火をつけて壁を背にしている人達を見回した。全部女だった。全部ババアだつた。・・・ブラブラコーヒー屋を出て来たら、私は何のサンドイッチを食ったのか忘れていた。キョロキョロ『同志バアさん』を見るのに一生懸命だったのか、呆けたのかわからない」(p9〜10)。
「夜『プロジェクトX』を見ながら泣いた。立派な人達がいるのだ、(こんな作り方をするなら)
たとえやき芋屋だって泣けるかもしれん。しかしせっかく感動させようとして作られた番組は泣いた方が得だと思う」(p17)。
「銀行に行くとATMの前に人が沢山並んでいた。私は急ぐでもないのにイライラする。私よりほんの少し年のバアさんが、機械の前で、悪戦苦闘している。ボタンを押しながら、じっと見て、あたりを見回し、銀行の人を目でさがしている。そしてまた、わかっていのかわからんがボタンを押している。我が身を見ているようだった。・・・あーあと何年自分で金を下ろせるのだろう。・・・あー、金ってへってくばかりだあ。ちったあ、仕事をしなくったゃなあ」(p29〜30)。
どうも引用箇所が適当でないのか、引用するセンテンスの区切り方が悪いのか、このエッセイの持つニュアンスをうまく伝えられないのが残念なのだが、ともかくも小気味良いのである。
「私はたまに電車に乗ってくたくたになった。身も知らぬ人間は透明人間だと思わなくては、電車なんか乗れない」(P152)。
「エロじじいは公認されている。しかしエロババアは気狂いである。このごろ私はなにかしようと思って立ち上がる。立ち上がった瞬間、何のためにたちあがったか忘れる」(P227)。
「私の見栄ってこういう表れ方をするのか。フーン。しかし見栄というものは世間がないと生まれないものである。あれ程私の一生、自分は世間になるまいと固くふんばって来たのに、自分の中に世間が埋蔵されていたのだ。困ったことだ。私の肝は世間に負けた。路地を私はうつむいて歩いていた」(P57)。
人が死んでも世の中が変わるわけではない。それでも自らを「ババア」と呼ぶ、ひとりの女が72歳でこの世を去った。乳がんだと聞いた。
「生まれた時からの根無し草で、あちらこちらをさまよい暮らして、どこにも根を張れなく、そんな人たちが集まり生きて来ている都会で人生のほとんどをすごした。仕方ないわよね。私だって、私なりに一生懸命だったわけ。仕方ないわよね」(「神も仏もありませぬ」P179)
二冊目に読んだこの本の最後に、彼女はこんな思いを綴っていた。二冊読み終えて、どこかで私と共感できるようなそんなイメージを与えてくれる小気味良い文章との久々の出会いであった。
猫は百万回生き返ることで本当の意味の死を知ることができたが、一度しかない人間の死を彼女はどんなふうに感じたことだろうか。冥福を祈るなどと、月並みなことは言うまい。72年の彼女の生涯を、私はどこかで羨ましく感じている。
まるで知らない、どんな生き方をしていたのかも知らない、一冊の本から名前だけ記憶していた人が、つい最近亡くなった。その訃報につられてその人の本を二冊ばかり読んでみた。ただそれだけのことである。
2010.11.22 佐々木利夫
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