飲んだら体臭がバラの香りになるという錠剤があるそうで、現実に発売されていると聞いた。どことなく一度試してみたい気のしないでもないけれど、最近のニオイへの人びとの関心の高さにはどこか変な気がしてならない。
 もちろん人がニオイへ関心を持つことそのものを異常だと言いたいのではない。体臭に関してだって、汗まみれで風呂にも入らずに何日も過ごすことなどに対して、体を清潔に保つこともエチケットの一種であろうことを理解できないではないからである。

 だが「人間の体はそもそも臭い」ことを前提にしてしまい、その対策に化粧品や香水や石鹸やクスリなどを使うこと、つまり「ニオイ対策のために金をかけなければ人間失格だ」みたいに言い募る最近の風潮にはどこかひっかかる。

 こんなことを言っちまうと、私自身がニオイに対して常識外れなのではないかと思われるかも知れないけれど、私のニオイに対する感覚は実は中学生時代の国語の授業に遡るのではないかと思っている。
 どんな授業だったか、どんな文章の一節だったかまるで覚えていないのだが、それは確か教科書に引用されていた芥川龍之介の著作の一部であり、「糞尿の悪臭を理解できない者にバラの芳香の分かるはずがない」ような意味を述べたフレーズだった。

 この文章の意味が言葉として理解できないのではなかったが、糞尿のニオイをすべて悪臭として一くくりにしてしまうことにどこか違和感を覚えた記憶が今でも残っている。こんな風な言い方は変かも知れないけれど、少なくとも私には「自分の糞尿やオナラのニオイ」に限るなら必ずしも悪臭とは言いきれないのではないかと思ったからである。
 それに加えて私は子供の頃から家の手伝いとして家庭の糞尿を遠くの畑まで担いで行き、自家用野菜などの肥料にしていた。だから運ぶ途中や畑に撒くことやそうしたニオイが畑一面に漂うこと、やがてそれが陽光に乾いていって畑全体のニオイになっていくことなどは日常の中で当たり前に存在していた。だからと言ってそうしたニオイを香料と同列に理解してたわけではないけれど、自然界に当たり前に存在するニオイであり、決して不快とは感じていなかったからである。

 もちろんそれは決してシャネル5番に比肩する「いいニオイ」とは言えないかも知れないけれど、春先の日差しの中では一種独特の「畑のニオイ」であり、決して悪臭だとは思えななかったのである。

 まあニオイへの思いがこんな私の記憶程度で済んでいるうちは特に気にならなかったと思うのだが、いつの頃からだろうか「加齢臭」と言う言葉が世の中に出回り始めてきた。そしてそれは「年寄りは臭い」の意味からどんどん拡大していって最近では「人は年齢を重ねることで臭くなる。お父さんも臭い」と言う我が子から親に対する評価にまで拡大するようになってきた。

 それはやがて「加齢臭の原因はノネナールと呼ばれる物質だ」とする科学的根拠まで示して主張されるようになり、ニオイ問題は相手の人格に対する批判にまで拡大していくようになっていった。やがて「加齢臭」の熟語は次第にその立場を確立していくようになり、そうしたニオイへの対策は「人が必ずしなければならない」とする一種の脅迫状態にまで及んできている。

 これはつい最近の新聞の特集記事からの抜粋である(2010.8.3、朝日)。

 「においケア 男の作法」、「汗ばむ季節、においで周りの人にイヤな思いをさせていないか、視線がきになる」、「嗅覚は感情に訴える。不快なにおいは出会いの場でもマイナスです」、「印象を左右する香りは、お付き合いの重要な要素です」、「皮膚の表面にすみついた細菌がにおいの正体だ」、「加齢臭を引きおこすノネナールも、皮脂に含まれる成分の酸化で生まれる」、「においが発生する仕組み自体に男女の違いはない。しかし・・・中高年の男性は、原因となる皮脂の量が同年代の女性に比べて多く、体臭発生のリスクが高い」、「妻にくさいと言われたとショックを受けて買いに来る夫」、「周りからどう評価されているかを気にする傾向が高まっている」・・・。

 体臭への対策は、具体的には香料で不快なニオイを和らげたり、ニオイの発生原因たる細菌を除菌するということになるだろう。こうした傾向の中で、最近の男性用の制汗剤市場は2009年で45億円にものぼり、過去3年で20%以上も規模が拡大しているそうである(前掲、朝日)。
 こうした傾向のはしりは、「抗菌グッズ」と呼ばれるボールペンや肌着やスリッパなどなど、日用品のほとんどに細菌を死滅させる作用を組み込んだとする商品が世の中に広まりだしたのと軌を一にしているような気がする。子供の遊ぶ公園の砂場の砂には細菌が住みついているとして、消毒された砂に取り替えて遊ばせていると言う話すら聞いたことがあるくらいである。

 人はいつの間にか「無菌」であるとか「無臭」に極端な信仰を抱くようになってしまったように思える。本来は程度の問題であるはずなのに、そうした程度の範囲を超えて「極端」を基準ににしようとしている。「商業主義に毒されている」と言ってしまえばそれまでのことかも知れないけれど、私には商業主義が私たちを惑わしているのではないように思える。逆に私たちが極端を望むように変節していっており、そうした変節が商業主義を誘導しているのではないかと思えるのである。

 こうした傾向の増幅は、最近の人が切れやすくなってきていることなどからも想像できるように、「我慢する心」や「ほどほどで納得すること」からどんどん遠ざかっていることとも無縁ではないように思える。人は他人のニオイに耐えられなくなってきているのだろうか。無臭や無菌の只中、つまり孤立した他者の存在しない空間にしか自分の居場所を見つけられなくなってきているのだろうか。

 ひとりの事務所は私一人の城である。朝の自宅から歩いて到着すると、そのままシャワーを浴びるのが日課になっているけれど、吐く息からも除菌対策などしていない私の皮脂からも、そして70歳と言う年齢からもノネナールは部屋中に拡散し、充満していることだろう。
 ニオイに対する私の感覚はもともといい加減なものだし(別稿「香水の記憶」参照)、何と言っても自分自身のニオイには鈍感な方なのでまるで気になってはいないけれど、バラの体臭になるという錠剤を試してみるのも悪くはないかな・・・?。

 ところで自分のニオイには鈍感だと自白したばかりなのだから、だとすればバラの体臭の目的は果たして誰のため?・・・。



                                     2010.8.5    佐々木利夫


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ニオイの時代