「人はどこまで他者を理解できるのだろうか」と考えたのは2年ほど前のことだったけれど(別稿「
納得の背景」参照)、最近同じような思いを抱きながら読んだ新聞記事があった。それは、要約するなら「人はいくつになったら理解できるようになるのか」に連なるものであった。
記事の概要は、他人から精子の提供を受ける人工授精(AID)で生まれてきた子供への告知をめぐる特集であった(’20.5.22、朝日新聞、「授かった命 悩む告知」)。こうしたAIDそのものはいわゆる試験管ベイビーと呼ばれたものも含めて1978年頃から始まったとされているので、けっこう昔から存在していた。
人が「種」としてチンパンジーやオラウータンなどと区別され、言葉としていささか気恥ずかしい気持ちのしないではないけれど「霊長類のトップとしてのホモサピエンス」などと名づけられているのは、極端に言うならその範囲内で交配が可能であるところからもきているのだろう。
つまり、人同士でのみ生殖が可能であること、換言するならチンパンジーなどとの間で子供を作ることはできないことが、一つのグループ分けとしての「人」を区分する背景にあるのではないだろうか。
それが結果として「結婚」という形にしろ、婚前交渉や強姦や売春という形にしろ精子と卵子の遭遇と言う事実が胎児への成長そして分娩・誕生へとつながっていくからである。そしてこのAIDもまた、その延長線上にある。
この新聞記事の特集は30歳の女性の23歳の告白から始まる。
「・・・自分がAIDで生まれたことを知った。父親が遺伝性の病気を発症し、心配になって親に尋ねたのがきっかけだった。ショックを受けた・・・これまでの23年間は何だったのだろう。積み重ねてきたもの、すべてが『うそ』に思えた。・・・事実を知って1ヶ月後に家を出て大学院も辞めた。」
もうひとりの男性(AIDの子を持つ父親)はこう語る。
「・・・AIDで生まれたことを知らずに成人したために苦しい思いをしている(人がいる)と知り、早い段階で子どもに告知した方がいいと思うようになりました。・・・子どもに一生、うそをついていかなくてもいいんだ、仮面の家族のようになってしまわなくてもいいんだと思ったら、安心しました。・・・1歳の子どもが、理解できる年齢になったら本当のことを、話そうと思っている」
私が気になったのは、この父親の思いを読んだときであった。彼は「自分がAIDであることを知らずに成人し、そのことに苦しんでいる子がいる」との事実を知ったことから、AIDの事実を「1歳の子どもが理解できる年齢になったら」我が子に告知しようと思うことでホッとしたと語る。つまり、「成人する前の理解できる年齢」を彼は告知の期限と理解し、そう思うことでこの問題に決着をつけようとしているのである。
だがもし仮にAIDの事実が前述の女性の言葉にもあるように、親子の信頼を根本的に喪失させるまでのショックを与えるものだとしたら、そのショックを理解や納得に代えることのできるのは果たしてその事実を知らされる子どもの年齢によるのだと考えてもいいのだろうか。
私は今年で70歳になった。この歳になってみると同級生のみならず後輩にいたるまで多くの鬼籍へと旅立った知人は多い。また時おり眺める新聞の死亡記事にも、私より若い年齢がそれなり目に付くようになってきている。だから起きることのすべてに納得しておとなしく人生を閉じてもいい歳ではないか、と思わないでもない。だがそう思いつつこの歳になっても、私には「AIDを告知される」と言う事実を受容する気持ちが自身の中にきちんと備わっているかどうか疑問に思えるのである。
もちろん、前述の女性のように「家を飛び出し、学校も辞める」ほどの行動はとらないかも知れない。でもそのことと事実を受容することとは別ではないかと思うのである。確かにこの歳になってしまうと、それほどジタバタした行動はとらないかも知れない。しかしそれは事実を理解し、納得し、その上で結果をきちんと受け止めたのとはまるで違うのではないかと思うのである。
ジタバタしないのは、もしかしたら世間体であるとか将来の生活設計などの打算を加味し単にジタバタを封じ込めただけに過ぎないのではないかと思うからである。ある事実を妥協や諦め、埋没や鈍磨の中に押し込めてしまえることを、あっさりと「理解」だとか「納得」などと言う範疇に押し込めてはいけないのではないだろうか。
私にはこの父親の「子どもが理解できる年齢になったら告知しようと考えてホッとした」との思いがどこか身勝手なひとりよがりではないかと思えてならないのである。前述した告知された女性は、23歳になっても受容することはできなかったと告白しているではないか。それが「成人する前の理解できる年齢に達したら」と言う父親の思いとどんな風に重なるのであろうか。
恐らくその父親も「ホッとした」との気持ちとは裏腹に、これからも悩み続けるのかも知れない。子どもが幼稚園に入った、小学校に上がった、中学生になり高校生になってガールフレンドができたようだ・・・。恐らく父親の頭の中には「告知する日」として区切りたい誕生日が浮かんでいるかも知れない。その「理解できる年齢の誕生日」は果たしていつ来るのだろうか。そのとき父親は自信を持って「この子は私の言うことを理解できる年齢になった」と思い、そして「お前はAIDによる子どもなのだ」と宣告することができるのだろうか。
この問題に対しては私にもどうしていいか分からない。新聞記事にはこうも書いている。
「家族ごとに価値観が違います。告知を強制すべきではないと思います。ただ、子どもがある年齢になったら、出自を知る権利は保障してあげるべきではないでしょうか」。正論だと思う。その通りだと思う。だが正論だと思う一方で、この意見は結局何にも言っていないのと同じではないかとも思ってしまう。この意見を読んだ人にとっては、「ならばどうするのか」について示唆されるものは少しもなく、「自分だけで考えろ」と冷たく突き放されているのと同じだと思えるからである。
話は変わるけれど、最近人工細菌の作成が話題になった。細菌をほぼ人工合成することに初めて成功したとの論文を、米民間の研究所が5月21日米科学誌サイエンスに発表したとの報道があった。モデルに選んだ細菌のDNAをまねて化学合成し、別種の細菌に移植したところ活動し、増殖したというものである。その事実は「人類史上初めての生命の創造」との論議を呼んでいるとも言われている。
臓器移植をはじめクローン問題や不妊治療など、「人の命」を操作するような手法が次々に開発されつつある。人の命だからと言って改めて特別視するようなものではないとする意見が必ずしも間違っているとは思わない。恐らく人の命を巡る思いには、人類をこの世で最大かつ最高の価値を持つものだと言う傲慢さが背景にあるのかも知れない。人の命だって進化の過程から見るなら、その辺のゴキブリやバッタの命とそれほど違うものではないのかも知れないからである。
倫理などと気安く使いたくはないけれど、私ももしかしたら「人の命」は別格だとどこかで偏重し過ぎているのかも知れない。それでもどこかで「人が人の命に係わること」には、それがたとえ医療であれ、治療であれ、少子化への対処などと言ったもっともらしい理由がつけられているにしても、どこか不遜さが含まれているように感じられてならない。
確かに現代はそうした「人の命」を様々な形で「選ぶことのできる時代」になったのかも知れない。ただそのことに、我々自身が追いついていけないでいることも事実なのではないだろうか。「選ぶこと」には、その結果と責任も同時にくっついてくる、それは命だけの問題ではないけれど・・・。
2010.5.27 佐々木利夫
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