私のエッセイにも「どこか変だなと感じること」なんてタイトルをつけて、私にとっての世の中の理不尽じみた思いを愚痴のはけ口にしているのだから、今更他人のことをどうのこうのと言える立場にはない。しかも愚痴っていうのは、どちらかと言うと身勝手なひとりよがりになるのが多いことくらい、この年齢になると厭でも思い知らされることが多い。それでも新聞やテレビなどで、どこか身勝手過ぎるのではないかと思えるような意見が気になってしまうと、自分のことは棚に上げてつい一言言いたくなってしまうのは老人の持つ癖かも知れない。最近そんな新聞投書にいくつかぶつかったので少し取り上げてみたい。
@ 単身赴任とマイホーム
「二児の父である甥が、マイホームを購入したとたんに単身赴任になった。会社は事前に相談を受けるとか、大切な生活を思いやるだけの心はないのだろうか。社命を拒めず妻子を残して赴任する姿はふびんだ。」(3.20、朝日、「社員の人生に配慮を」、80代男性)。
書いてあることの分からないではないけれど、単身赴任の事実だけから投書者は自分だけの思いに凝り固まっているような気がしてならない。つまり甥一家が単身赴任を決断した事情について、会社の事情も本人の思いも、何にも考えていないような気がする。
その会社には単身赴任の制度がこれまでもあったはずであり、彼が会社にとっての歴史的単身赴任第一号というような特殊なケースではなかったと思うのである。甥は単身赴任があり得るという事実を知りながらマイホームを購入したと思うのである。うがち過ぎた考えかも知れないけれど、甥が仮に自宅を持つことで単身赴任を逃れることができるのではないかなどと考えていたのだとするなら、それは人事に対するとんでもない甘さであろう。
甥の勤めている会社の人事異動がどんな思惑で行われているか、私はまるで知らない。場合によってはさいころを振るようなことで決めることだってないとは限らないだろう。人事課長や社長などによる思いつきや何かの報復による嫌がらせだってないとは言えない。だからと言って、その事実が分からない状況下ではそうしたことを前提として人事異動を批判することはできないだろう。ましてやこの投書者は、甥から転勤に関する情報も理不尽な状況などについても得ていない(書いていない)のだからなお更である。
しかも単身赴任をするかどうかは、ごく常識的に考えるなら多くの場合自分と家族とによる決定である。自宅を空き家のまま、もしくは他人に賃貸して家族全員で赴任することは経済的には辛い面もあるだろうけれど、不可能な選択ではない。そうした選択肢も含めて、彼は赴任先のポストや自らの将来、会社からの期待、己の能力、家族の生活などを総合して「単身赴任」を選択したのだと思うのである。
「社命を拒めず、思いやりの心に欠ける会社」を一方的に加害者に仕立て上げ、単身赴任する会社員をその対極に置いて被害者に置く発想は、どこか独断に過ぎるような気がしてならない。
毎週日曜日の午後6時過ぎのNHKラジオに「地球ラジオ」という番組があり、その中に「ぼくたち、わたしたち、元気だよ」というコーナーがある。海外にある日本人学校に通っている小学生が、現地での生活や学校での状況を作文で読み上げる番組である。聞いていて世界には驚くほど多くのこうした学校があり、驚くほどたくさんの生徒が通っていることが分かる。子どもたちの多くは、恐らく海外勤務の父親と一緒に現地へ来たのであろうが、それぞれに明るく元気である。
単身赴任にもそれぞれに課題のあることを否定はしないけれど、海外にかかわらず家族と一緒に赴任しているケースだって多いと思うのである。
私はこの投書者に対して、単に単身赴任という言葉だけから会社を責めるのではなく、少なくとも甥から単身赴任をしたいきさつなどを確かめた上でそれを書き添えつつ判断してほしかったと思うのである。
A
荒れる農地
「4年前に定年退職して郷里に帰って・・・米と野菜を作り。少しだが出荷もしている。しかし・・・赤字で、年金をつぎ込んで何とかしている。この地域は、多くが50代以上の兼業農家のサラリーマンか
定年退職者だ。・・・多くの田畑は・・・荒れ放題。・・・国は地域の『自然死』を待っているとしか思えない。戦後の経済政策の失敗が、このような状態を招いた。・・・金さえ出せば、いつでもいくらでも外国から食料を買える時代ではなくなりつつある・・・。今すぐ官民あげてあらゆる施策を講じ、対応すればなんとかなるかもしれないが、国会中継を見ていると誠に頼りない。切羽詰らないと何も動かないのか」(4.5、朝日、「後継者なく荒れる郷里の田畑」、66歳農業者)。
農業をなんとかせいという気持ちの分からないではないけれど、根拠を示さずに一方的に政府を責めるのは現代の風潮でもあろうか。
この投書内容のほとんどが私には投書者の独断でしかないように思えてならない。例えば「国は農地の自然死を待っている」としているが、どんな状況、そしてそれに対する国のどんな対応または無対応がこの意見の裏づけになっているのであろうか。本当に国は農地の自然死を待っている、つまり日本にとって農地は不必要なので農地が農地でなくなるような状況を促進もしくは維持していると、彼は信じているのだろうか。それとも単に荒れていく状況に我が身がなんともできない歯がゆさを表現したかっただけなのだろうか。
こうした独断はこれに続く「戦後の経済政策の失敗がこのような状況を招いた」とする意見にも表われている。どんな経済政策の失敗が彼の感じている農地の荒廃に結びついたと考えているのだろうか。更に「金さえ出せばいくらでも外国から食料を買える時代ではなくなる」ことも同様である。人口の増加によって外国が自国の消費を賄うために輸出をしなくなるからなのか、地球環境の汚染によって作物の増産が困難になるからなのか、それとも日本の経済が縮小して輸入するだけの外貨を獲得できなくなるからなのか、金に代る経済システムの発達に日本が追いつけず金そのものの経済的な価値がなくなるからなのかなどなど、「金で食料が買えなくなる」ことの意味を彼はどんな風に考えているのだろうか。
「今すぐ官民上げてあらゆる施策を講ぜよ」と彼は言うが、あらゆる施策とはまた抽象的で何の意味も主張も持っていない。ワンマン社長が社長室の椅子にふんぞり返って、部下に向かって「とにかくなんとかせい」と怒鳴るのと何の違いもないように思えるからである。あらゆる施策なのだから無数にあるのかも知れないけれど、少なくとも有効と思われる一つや二つを例示するくらいの提案はすべきであろう。
彼の独断は更にエスカレートしていく。「国会中継を見ていると誠に頼りない」と言うけれど、そのことが何を意味しているのだろうか。どんな国会論争を言っているのか、もっと具体的に言うなら農業に関するどんな国会論議が頼りないのか、更には農地に対するどんな対策が不満だと感じているのか、この意見からではまるで伝わってこない。国が悪い、地方が悪い、社会が悪い・・・などと抽象的に悪い、悪いを言いつのったところで、「なんでもかんでも世間が悪い」と他人任せの無責任な言葉を繰り返すだけでは誰にも真意が伝わらないのではないのではないだろうか。
「切羽詰らないと何も動かない」だってそうである。「切羽詰る」とはどんな状況を考えているのだろうか。農地が今より減少することなのか、それとも日本の農地が全滅してしまうことなのか、それともそれとも食うに困って日本が国そのものを外国に身売りするような状態までを言うのか・・・。私なんかは逆に「切羽詰まれば動く」のが事実だとするなら、それはそれでいいではないかと思ってしまう。と言うより、世の中ってのは切羽詰らないと動かないのが本音のところではないかと感じているからである。それとも「そのときは既に手遅れだ」と言いたいのだろうか。ならば、「手遅れ」とは一体なんなのだろうか。
この投書からは、論証なき結論への三段跳びがあからさまに見えてくる。しかもなんの対策や代替案の提示もしないままにである。
最近の新聞投書から(下) 「ワクチン・働かせ過ぎ・食べ残し」へ続く
2010.4.20 佐々木利夫
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