こんな風にあれこれいちゃもんをつけながら書いていると、どこかそのことが逆に自分の矮小さを示しているような気がしてならない。そうは言っても自分の言ってることはいつも正しく、それに合わない他人の意見は常にどこか変だと感じるのは、まあ、言ってみれば老人の特権かも知れない。そう思いつつ、もう少し続けます。
B ワクチンが余ってる
「新型インフルエンザの流行は下火になり終息しそうだという。が、足りないと言われたワクチンが余っているにもかからわず、希望者に摂取できなかったことに疑問が残る。・・・12月に優先者からなので一般はまだと言われ、1月にも入荷がいつになるか分からないと予約もできないかった。・・・後日の報道によればワクチンはかなり余ってるという。病院の中には今年に入ってから接種希望者が急減し、在庫の4分の1程度の予約しかのないという。下火になったからいいが、納得がいかない」(4.5、朝日、「摂取断られ、ワクチン余剰なぜ」、67歳男性)。
自分への接種が希望通りに受けられなかったことに憤懣やるかたない気持ちを抱いていることはよく分かる。恐らくこのことで本当に新型インフルエンザにかかり、重態、更には死んでしまったら一体どうしてくれるんだとの思いがあるのかも知れない。
でも新型インフルエンザに対してパンデミック(世界的規模の感染拡大)の恐れありとしてWHO(世界保健機構)がフェーズ6を宣言したことや、感染者が限定されその数も年齢も限定的であったにもかかわらず日本中のマスコミが大騒ぎしたこと(別稿「
命の選別」、「
新型インフルエンザ・不安と安全」、「
小さくなっていく地球」、「
世論調査と民意」など参照)の適否はともかく、新型であるため日本国内にワクチンの備蓄がなかったことは事実である。予防するにはうがいや手洗いもあるけれど、直接的にはワクチンの接種しかない。そのためにはワクチンを新たに製造するか外国から輸入するしかないが、いずれにしても製造や検査などに時間がかかる。それに対して感染は例えば飛行機から罹患者が検疫などのチェックをすり抜けてしまった場合などには待ったなしに拡大していくんだから、なるべく早期に国民全員に予防接種をすることが望まれる。
在庫がなく製造や輸入には時間がかかり、しかも予防の必要性は目前に迫っている。だとすればそこに需給のギャップが生じることは避けられないだろう。そうした場合、用意できるワクチンの範囲内で接種対象者に優先度の差を設けることの必要性は誰の目から見ても明らかである。
結果的に日本における新型インフルエンザの感染拡大は心配されるような事態にはならなかった。だから需給ギャップは当初予想とは逆に供給過剰を招くことになった。ただこれは結果論であってそのことを予想した者は私の知る限り一人としていなかった。「可能な限り全国民に接種する」が国の命題だったからである。
さて、このような状況は投書者自身が文中に「優先者からの接種」、「入荷時期の不確定」などの文言を使っていることからみてきちんと理解していたはずである。それにもかかわらずどうして彼は「自分が除外された」ことに納得がいかないのだろうか。それともワクチンが余っていると報道された後になっても、彼の希望した病院には入庫がなくて接種が受けることができなかったのだろうか。投書を読む限りそんな様子はうかがえない。私にはつくづく人は身勝手なものだと思えてならないのである。
C 働かされ過ぎの娘
「娘が大卒で都心へ就職した。自宅から1時間半かけて通勤してる。忙しい時期は朝5時起きで、6時半に家を出、終電で午前1時近くになって帰宅する。風呂に入って寝るのは午前2時。・・・会社の方針なのか店長の一存か、・・・利潤を追求するあまりか、社員の命や健康を考えているようには思えません。・・・最寄の駅は寂しく、家までは川や畑、それに林です。人通りも少ないので、親として本当に心配です」(4.11、朝日、「働かされ過ぎ わが娘 心配」、55歳主婦)。
「親の心配」の事実は分かりすぎるほど分かる。だがそのことを雇い主の責任だけにしてしまう考えにはどこかついていけないものが残る。
単純に計算するだけで、6時半に家を出て1時間半かかるのだから勤め先に着くのは8時である。それもそうしたケースは忙しい時期に限られているのだから、それほど苛酷な勤務だとは思えない。自宅をどこに建てるかは勤務先とは無関係であり、遠距離通勤のために早起きすることまで勤務先の責任だとは思えないからである。帰りも同様である。確かに午前1時の自宅到着は、11時半まで仕事をしていることになる。だがそれも「午前1時近く」という表現や、「忙しい時期は」という説明からするなら毎日毎日のことではないような気がする。
確かに彼女の勤務が「8時間労働で残業なし」というような単純なものでないことを理解できないではない。だが、こうしたパターンの勤務の大変さは彼女の住いが都心から遠く離れていることに最大の原因があるのではないだろうか。しかも寂しい駅や自宅までには川や畑や林が存在していることの無用心さは、通勤所要時間から考えて明るいうちに通り抜けることは通常の場合でも難しいのではないだろうか。そうした状況まで含めて会社や上司による労働過剰の責任にしてしまうのは、娘可愛さのあまりどこか身勝手になっているからではないだろうか。
D 食べ残しと飽食
「実家が旅館を営んでいて洗い場を手伝うことがある。・・・下がってきた食器類を見ると日本人客の食べ残しが圧倒的に多い。・・・我々が子供の頃は『食事は残さずに食べる』ことが常識であった。・・・世界の飢餓人口が10億人を突破したという現在、・・・こうも飽食であることに疑問を感じざるを得ない」(4.5、朝日、「食べ残し多い日本人客に疑問」、48歳歯科医)。
自分で調理したものではないにもせよ、出した料理が残されて戻ってくることに「もったいない」と思ったり、料理人の努力に思いを寄せて悔しいと感じることが理解できないではない。ただ私にはこの投書には大事な視点が欠けている、むしろそっちの視点こそがより重要なのではないかと思えてならなかったのである。
そう思った原因は、旅館から出される食べきれないほどの料理の多さである。その多さの背景には儲け主義や豪華さや豊かさの売りなどがあるのかも知れないけれど、宿泊料金の高さともども日常食べている家庭での食事と比べてみるならすぐに分かることである。それは決して宿泊者の日常が粗食であるからではない。ましてや旅館が普段欠乏しているであろう宿泊者の栄養を補おうとして大量の食事を提供しているわけでもないはずである。もし仮に栄養補給のために旅館に泊まる人がいるとしたら、そんな人は恐らく旅行そのものを「無駄遣い」だと考えて中止しその費用を日常の食卓に回すのではないだろうか。
だとすれば、旅館側は食べきれないことを承知の上で料理を出し、宿泊者も食べ切るなど考えることなく、飽食による豊かさへの錯覚や珍しい食材や調理方法などへの興味などを求めて旅館の食卓に向かっているのではないだろうか。つまり旅館で出される食事というのは、彼の言う「残さずに食べる」と言う一昔前の人間が抱いた日常での常識からは乖離した、一種の贅沢への幻想として作用しているのではないだろうか。極端に言うなら「旅館の食事は残すように作られている」と考えてもいいのではないだろうか。
そのほかにも旅館の食事と言うのは高級食材だとかその地方の名物などを出すことが多く、所変わっても品変わらずみたいに、どの旅館でも豪華ではあるけれど同じような品揃えになる傾向がある。つまり飽きの来やすい調理になることである。このことは例えば北海道旅行では、どの旅館に行ってもホタテの刺身やカニ料理、鮭の切り身やじゃがいもやアスパラなどに偏ってしまうことが多いことなどからも分かるからである。
食べきれない量の食事、それに飽きのきやすい偏った料理、それはまさに食事が残ることそのものを意味しているのではないだろうか。私にはこの投書者の意見が、「旅館の出す食事」の意味と「食事は残さずに食べること」の意味とが、まるで異なっているにもかかわらず無理やりに並列化しようとしているように思えてならないのである。
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2010.4.23 佐々木利夫
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