「正直者が馬鹿を見ない世の中にしたい・・・」、こんな言葉がいつのころから世の中に広まってきたのか知らないけれど、この言葉にはどこか無批判に人を納得させてしまうようなイメージがまとわりついている。
 そもそも「正直」そのものがいささか厄介なテーマではあるけれど(別稿、「金の斧、銀の斧」参照)、少し考えてみると、どうもこの言葉には自己矛盾というか、どこか引っかかるような要素が含まれているように思えてならない。

 その一つは、「正直者」と言う語そのものが、一つの存在としての意味と言うか前提を持って成立している言葉ではないかと思えることである。世の中の人々を「正直者」か「不正直者」かの二種類だけに分類してしまうこと自体どこかしっくりこないものがあるとは思うけれど、ここでは「正直者」を取り上げるのだから、その反語として「不正直者」、もしくは「正直でない者」をその対極に置くことはとりあえず承認してもらうしかないだろう。もっともそう言った舌の根の渇かないうちから、「自分はどっちなのだろう」だとか「ところで本当に正直者ってのは存在するのだろうか」と言った疑問が湧いてきて、とたんにそうしたニ分割の前提そのものが揺らいでしまうことにもなりかねない。その点はともあれここでは目をつぶってもらうことにしよう。

 さて、「正直者」が具体的に存在することは仮にもせよ承認されたとして、ここでの問題提起はそうした「正直者」が馬鹿を見ないことである。そうした言葉の持つ意味が分からないと言うのではないが、今ひとつ引っかかるのは、そうした言葉を発するのは一体誰なのだろうかと言う点であった。

 「正直でない者」の発言だとするなら、どこかで自己矛盾と言うかつじつまの合わない話になってしまうのではないだろうか。「正直者が馬鹿を見ない世の中」と言う言葉の中には、正直者がそうでない者に比べて損をしていると言う状況が前提になっている。換言するなら「正直でない者」が正直者よりも得をしている現状があることを意味しているという。
 だとするならこの発言は、「正直でない者」が自らの享受している利益(経済的な利得であるか、それとも他者よりも有利な立場を指すと見ていいだろう)などを放棄して、その分を正直者に再配分せよとの主張であると言うことになってしまう。ところで果たしてそうした主張が「正直でない者」から声高に出てくるものなのだろうか。そんな発言は自らを不正直者だと宣告するのと同じことになってしまうのではないだろうか。そんな懺悔じみた宣言などしなくたって、寄付だろうが慈善だろうが自らの利得を正直者に還元する手法はいくらでも存在するだろう。そんな方法よりも「密かに自分自身が正直者になる」ことですべて完結するように思えるからである。

 反対にこの言葉を「正直者」自身から発せられたと理解することも可能である。だがその理解にもどこかしっくりこないものがある。「正直者」とはまさに正直者である。それは「正直でない者」が存在することを認めた上で、かつ「正直者」であることに満足している者のことでもある。正直者が正直でない者よりも何らかの不利益を被っている状況が今話しているテーマの背景にあるのだから、正直者はそうした現状にあっても自らが正直者であることに満足しているはずである。だとすれば、正直者自身の口から「正直者が馬鹿を見ない世の中にする」との主張が出てくるとは到底思えない。

 ところでもう一点、世の中には「正直者」、「正直でない者」と言う区別の中間に、「どっちつかずの人」がいて、そう言う人たちの思いだとの意見があるかも知れない。そうした意見はこのテーマの始めに述べた人類二区分説の前提には反するけれど、意味として分からないではない。そうした「中間にいる人」が損をしている「正直者」を見て、なんとか救いたいと思った上での発言だと言うならそれも一つの理屈である。
 でも正直者は自分自身で正直者であることに満足しているのだから、それをとやかく言われるのは余計なお世話である。もし不正直者の不当な利益が正直者に配分され、結果としてこの両者に損得の差がなくなってしまったら、正直者と不正直者と言う言葉そのものの存在自体がなくなってしまうことになり、そのことは「正直者」であることに満足していた正直者の満足そのものを奪ってしまうことにすらなりかねない。ましてや自身が正直者になることでこの問題も解決するのだから中間者を認めることもどこかしっくりこない。

 このように考えてくると、「正直者が馬鹿を見ない世の中を目指せ」と言う主張は、正直者からも不正直者からも、更には中間にいる人からも出てくる言葉ではないように思えるのである。それなら誰からだと言うならたった一つだけ可能性がある。それは望むと望まないとにかかわらず「正直であるべき生活が社会的にも自律的にも強制されていて、不正直なことをしたくてもできない者」、つまり「機会さえあれば他よりも多くの利益を得たいと望んでいるにも係わらず、そうした機会の与えられていない擬似正直者」のどちらかと言うとやっかみの言葉であるような気がしてくるのである。

 「正直者であることを否応なく強要されている者」、「結果的正直者」の存在を認めることは、どこかで自分のみすぼらしさを見ているようで寂しくなるけれど、そんな人たちの「正直」に名を借りた「俺にも少しはおいしさを分けてくれ」との主張もあながち理解できないではない。
 まあ、「不正直者」とまでは言えないもののだからと言って正直者にも分類できない、そんじょそこらの小市民のつつましやかながら屈折した願望、それも自分で動き出すのではなく他律的になんとかしてもらおうとの卑屈な願望くらいに位置づけるのが相応なのかも知れない。

 だから私は、正面切ってしかも堂々と「正直者が馬鹿を見ない世の中の実現」みたいなことを主張したり、宣言したり、アピールしたりする人たちの姿を見ると、どことなく胡散臭く感じられて仕方がないのである。そんな言葉を吐く人たちが、どこまで自分の存在をどんな位置にあると理解しているのかが疑わしくなってくるように思えるからである。



                                     2010.3.4    佐々木利夫


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