大学卒業予定者の内定率が57.6%になり、数年前のアメリカ発リーマンショックに伴う就職氷河期と呼ばれた時期よりもさらに厳しい就活(しゅうかつ・就職活動)の時代に突入したと言われている。だとすれば職を求める若者が、「どこでもいいから内定が欲しい」と就職情報に群がり奔走することを一概に批判することは的外れかも知れない。

 それはそうなんだけれど、最近の就活に向かう若者の姿にどこか一生懸命さが欠けているように思えてならないことが気になっている。「内定が欲しい」と思う気持ちに、一生懸命さが足りないというのではない。むしろ「ひたむきさ」を感じることだってある。ただそれが、そのひたむきさの前置詞に「どこでもいいから」の一言がつくことで、どこか投げやりで真剣さが不足しているように思えてしまうのである。

 人が就職先を選ぶ時、どこまでその就職先に対する意欲なり目標をきちんと持っているかと言えば、そんなに重くはないだろう。就職する前にその企業の将来なり底力を理解し把握することは困難だろうからである。恐らく就職して、何年もの仕事を通じ、場合によっては定年まで勤めて、それでやっとその就職先と自分の人生とのつながりみたいなものが分かることのほうが多いのかも知れない。だから「きちんと理解した上で就職先として選ぶ」ことは理想ではあるかも知れないが、現実的ではないことくらいは承知しているつもりである。

 それでも私たちが就職試験を受ける時には、少なくとも「〇〇を受ける」、「××に入りたい」くらいの気力はあったはずである。たとえそれが時に「目的が曖昧な選択」であったとしても、そうした思いと「どこでもいい」こととは違っていると思うのである。

 超氷河期と呼ばれるような現在の状況では、そんな甘っちょろい考えではどこも採用してくれないのかも知れない。今や企業は、新入社員を育てるという考えからすぐに企業人として活動できる人材、つまり「即戦力」を求める風潮へと変わってきていると言われているから、就活もまたそれに即応した対処が望まれるのかも知れない。

 私が例えば関与税理士として顧問企業の採用試験や面接に参加することはなかったし、また一人事務所なので使用人を採用しようとする機会もなかったから、私がそうした就活の若者の姿を見るのはもっぱらテレビである。それも最近の就活をめぐる番組が多いから、いきおい「何回、何十回受けても内定がもらえない」若者の出番が多く、一発で内定が決まるような意欲ある優秀な若者の姿を見ることはない。だからそうした偏った側の若者の姿から「今の若者論」を語ろうとするのは同じ偏りを持つことになってしまうかも知れない。

 そうした偏りを承知しつつも、やっぱり「どこでもいいから内定が欲しい」と走り回る若者の姿には、どこか「いいかげんさ」と言うか「真剣みの足りなさ」を感じてしまうのである。
 その感じる原因はたった一つ、「どこでもいいから」にある。それを焦りだと言ってしまえば同情できないではないけれど、同時に「そんな奴、うちの会社では要らない」とも思えてしまうからである。「どこでもいいから内定が欲しい」とは、面接をしている担当者にとってみれば「家の企業もまたどこでもいい企業の一つ」であることになるからである。そして面接を受けにくる若者のほとんどがそうした「どこでもいいから集団」だとしたら、そんな中から採用などするだろうか。

 私がここで就活に励む若者集団を「どこでもいいから集団」と呼び捨てたことに原因がないわけではない。もちろんテレビに映る若者の多くがこうした言葉を繰り返していることにあるのだが、そのほかにもそれらの人たちが「同じ顔をしている」ことにもあったのである。
 若い女性の顔がみんな同じ顔に見えると書いたのはつい数ヶ月前のことだった(別稿「おんなじ顔」参照)。そのときはタレント女性の顔つきや容姿などにそう思ったのだったが、最近の就活する男の容姿をテレビで見て、男もまた同じ顔集団になっていることに自分ながら驚いたのである。

 それはもちろん就活なのだから、リクルートスーツに包まれた大学3〜4年生という同じような年齢世代であることに大きな要因があるとは思ったけれど、いわゆる「どれもこれも癖のない顔」であり「同じようなヘァスタイル」になっていること、そしてNHKのテレビカメラの前でも「いつもにこやか」みたいな個性のない顔になっていることにどこか違和感、どこを切っても同じ顔の金太郎飴みたいなものを感じてしまったのである。
 学生は就活のために事前に様々な訓練を受けるのだという。私たちの時代にも例えば「面接室のドアの開け方」であるとか、「はきはきと応答する」などの助言を受けたことはある。ただそうした就活のための訓練が、今や面接を受ける人の個性を殺してしまうまで拡張されてしまっているのではないかと思えたのである。

 もしかしたら現代は個性など必要としない時代になりつつあるのだろうか。だからこそ個性を捨てて同じ顔になっていくことが、これからの時代を生き延びていくための必要な手段として望まれるようになってきているのだろうか。
 それに呼応するかのように若者の意識も変化していっているように思える。「若手社会人の愛社精神はしだいに薄れ、出世意欲も乏しくなる」との記事を読んだ(2010.11.28、朝日新聞、就職情報会社 毎日コミュニケーションズ)。この会社による入社2〜5年目の若手社会人約600人を対象とした調査データによると、愛社精神が非常にある・まあまあある者の割合は学生が81%に対し社会人のそれは45%に止まっている。そしてどこまで出世したいかの問いに対しても部長クラスは11.9%(学生は22%)であり、出世したいと思わない者はなんと48.1%(同15.7)となっていた。

 愛社精神や出世意欲と己の人生とを並べることに、生きる目的の全部の照準を合わせるべきとは思わないけれど、それでも会社を愛することや、時に「社長になるぞ」みたいな意気込みは、生きていくための大きな力になるように私には思える。それは「執着する」ことではなく、努力する力として後押ししてくれるのではないかと思えるからである。
 まあこんな思いも、結局はむかしながらの「今時の若い者は・・・」に代表される年寄りの愚痴の一種だと言われてしまえばそれまでのことではあるのだが・・・。



                                     2010.11.30    佐々木利夫


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