今朝の出勤途上での出来事である。すぐ前を歩いて行く中年のおばさん風の女性がいた。禁煙して20年近くにはなるけれど、私も数十年前には同じような行為をしていたからそのことを批判する資格はないけれど、くわえタバコであった。そのうち彼女はそのくわえていたタバコを火のついたままポイと路上に捨てたのである。周りに建物もなく、舗装路面とコンクリートの塀の近くだったので特に火事の心配もなさそうだったし、ポイ捨てを見咎めて注意するまでの心意気も残念ながら私にはなかったのでそのまま歩き続けた。

 そのとき、突然彼女が立ち止まったのである。「オヤ、火のついたタバコだったので靴でもみ消すつもりなのかな」と私は感じた。だが違った。彼女はやおら持っているハンドバッグを開けてペットボトルを取り出し、中の水かジュースかをその吸殻に注ぎかけたのである。そしてそのまま何ごともなかったかのように歩き去ったのである。これだけのことである。1分にも満たない小さな行動であった。

 こうした行動を起こしたのは、自分の捨てたタバコが火のついたままであることに気づいたからであろう。そして靴でもみ消すような行為は女性としてはふさわしくないとでも感じたのかも知れない。「火のついたまま通り過ぎる」、「靴で火をもみ消す」、「水をかける」、色々な選択肢の中から、彼女は持参している水をかけると言う行動を選んだのである。

 吸殻のポイ捨てはゴミとして街の景観を損ねることにもあるだろうけれど、一番の問題は矢張り「火の用心」にあるだろう。そうした意味ではこの選択肢の中での彼女の選択、つまり「水をかける」ことは最良であることに疑問はない。だがそのことに私はどこかしっくりこないものを感じてしまったのである。それは、「最良の選択であったこと」に彼女自身が満足してしまったのではないか、そんな風に感じたからである。

 確かに彼女の選んだ行為が、何にもしないことや足でもみ消すことよりもより良い選択肢であったことを否定はしない。だがここに掲げた三つの選択肢は、最悪から最良までの両端を含む多くを網羅したものではない。このほかにも職場に着くまでタバコを吸わない、灰皿のある場所まで喫煙を我慢する、仮に吸うとしても携帯用の灰皿を持参し利用するなどなど、多様な選択肢があると思うからである。彼女の行為はそうした多様な選択肢の中では悪しきケースに偏ったものだと思うのである。つまり、一番悪い行為ではないにしても、ニ番目か三番目かはともかく、いずれも「やってはいけない行為」の範疇に含まれることに違いはないと思えたからである。

 私が彼女のこの行為に特に気になったのは「水をかけた」からである。彼女がそうしたからと言ってその行為を認めるわけではないけれど、仮に彼女の行動が火をつけたままのポイ捨てだけだったとか、もしくは捨てた吸殻を足でもみ消したと言うのなら、私はこのような気持ちを抱くことはなかったと思うのである。
 ポイ捨ては一番簡単な始末である。靴底でもみ消すのもそれほどエネルギーを使う動作ではないだろう。だが彼女はペットボトルをハンドバッグから取り出して栓を開け、吸殻に水を注ぎ、そして再び栓をしてボトルをバッグに収納すると言う一連の行為をした。そこには、どこかに「吸殻の火を消す」というどこか特別な意識の存在が強く感じられる。

 それが例えば他人の捨てた吸殻に水をかけるなど、一種のボランティアのような善意から出た行為だとするならそれはそれで分からないではない。だが「自分の吸った吸殻」の始末としてのこの水を注ぐ行為には、「ポイ捨て」と「水かけ」と言う二つのまったく矛盾した内容が含まれているように私は感じたのである。両立しないものを無理やり一つにまとめてしまったのではないか、そんな変な思いを私は感じてしまったのである。

 それはきっと彼女の気持ちの中に、いわゆる「相殺」の感情が生まれたのではないかと思ったからである。ポイ捨ては悪である。その行為を彼女は自ら行った。その後ろめたさを彼女は自分の中で、吸殻に水を注ぐことで帳消しにしてしまったのではないかと思ったのである。帳消しできない行為であるはずなのに、彼女は自分の中で無理やり帳消しにしてしまったのではないかと思ったのである。
 免罪符については先週「神様はお金が欲しいの?」で少し触れたけれど、水かけの彼女は、この水かけ行為は「いいこと」なのだから「ポイ捨てを帳消しにする免罪符になる」とどこかで自分に言い聞かせたかったのではないだろうか。

 考えてみると人は色々な場面で免罪符を求めようとしているのかも知れない。災害や難民などの募金に対する寄付であるとか、よく理解できないままに大義名分のタイトルにつられて署名運動に記名する、などなど・・・。
 人はいつか言い訳の中に安住し、自らを是認し、時に許容させてしまう生き物なのかも知れない。そうしないと正義の中だけでは人は窒息してしまうからなのかも知れない。人はどこかで様々なものと妥協し、その妥協の中で自らを守ろうとする。そうした安寧の中に我が身を置くためには、免罪符のような仕組みが時に必要になるのかも知れない。

 「あんたは正しい」、「その行為はまあそんなもんだよね」、「みんなやってることだからね」、「この程度のことくらい許されるよね」・・・。そうした思いは私の中にも間違いなく存在している。正邪に分ける中で己の行動を律しながら生き続けていくことは、もしかしたら俗人には耐えられないことなのかも知れない。

 出勤途上のほんの一瞬のできごとである。それほど目くじら立てるほどの行動でもないかも知れない。そんなことが気になるなんて私のへそ曲がりもいよいよ佳境に入ってきたと言うべきかも知れない。それでも実は「歩きながら自分の吸ったタバコの吸殻に持参していたペットボトルの水を注ぐ」ような行動を見たのは、私にとって始めての経験だったこともあり、物珍しさもあって私のへそ曲がりの違和感を増殖させたのである。



                                     2010.8.25    佐々木利夫


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免罪符への思い込み