日本で生まれてくる子供のうち、50人に1人が体外受精児なのだと最近のNHKでの朝のニュースで報じられていた。この2%を日本の総出産数約100万人にあてはめるとその数は実に2万人にもなる。多少多めだが小学校の一クラスの人数を仮に50人だとするなら、その中に人工受精児は一人は必ずいるということでもある。
 妻の卵子と夫の精子を体外で受精させ、その受精卵を妻の子宮へ戻す方法は、試験管ベビーなどと呼ばれた手法も含めすでに古語じみた感じさえしているから、不妊治療の手段としての体外受精は歴史的と言われるほどにも昔から話題になっている。ただそれでも私はそうした手段は不妊治療の一つとしての地位にあり、極めて例外的な妊娠の場合に限られていたのではないかと無意識に思い込んでいた。それでこんなニュースを聞いてちょっとショックを受けてしまった。こんなにも体外受精が多い事実、極端に言うなら現代の子供の多くが体外受精児であることにどこか不自然さを感じてしまったのである。

 卵子と精子の出会いが体外か体内かで、妊娠の事実や胎児の成長や性格などが変わるものではないだろうから、体外受精児をあたかもキメラ(ギリシャ神話に登場するライオンの頭と山羊の胴体を持つ生物、転じて同一の個体内に異なる遺伝情報を持っている生物を指す)やモンスターでもあるかのように思うのは偏見であることくらい理解している。またそうした体外受精児を特別視するつもりもない。それはそうなんだけれど、それでも体外での受精に際しては、少なくとも遺伝子診断や性別の産み分けなどの他事考慮じみた要素がそこに付きまとってくるのではないかと思えてならなかったのは事実であった。

 いつ、どんな番組で見たのか忘れてしまったのでここに引用することはできないけれど、男と女を科学的に取上げた番組で、将来的に(と言っても数万年、数十万年の単位らしいが)人のオスは不要になって淘汰される(つまり生物的に男は存在しなくなる)かも知れないとの仮説が数人の生物学者から述べられていたことを思い出した。

 人類を高等生物として位置づけるつもりはないけれど、少なくとも生物は性差をもつこと、つまり有性生殖によって地球環境の変化に対応し繁栄してきたことは事実であろう。それを自然淘汰と呼ぶか、それとも突然変異による環境への適応と呼ぶかはともかくとして、自らの種をより適応させて繁栄させる手段として生物はオスとメスに分化させることで発達してきた。もちろん無性生殖のままで生き延びている生物も数多く存在しているから、有性生殖が生物としての究極の理想像であるとは必ずしも言えないだろう。単に性差もまた種の生存や繁栄のため生物が選んだ試行錯誤の一つ結果に過ぎないと考えることの方が理解しやすいようにも思えるからである。

 こんな番組を見た記憶が残っていたせいか、この体外受精の報道を見て、もしかしたらすでに男には女を妊娠させる能力が欠落しかかってきているのではないかとの思いが不意に頭をよぎった。
 「嫁して三年、子なきは去れ」だとか妊娠しやすい食べ物であるとか男女産み分けのテクニックなど多くの民間伝承などにもあるように、昔から不妊は夫婦だけでなく家系維持のためにも様々な論議を生んできた。だから不妊はそれほど目新しいテーマではないはずである。にもかかわらず最近は特に不妊治療が話題に上るようになってきた。

 そうした背景には不妊を隠さずに話題にできるような時代になってきたことがあるのかも知れないし、不妊を単に神様の気まぐれにしてしまうのではなく治療できる医療の問題として捉えられるようになってきたことがあるのかも知れない。こんな言い方は非科学的であることは承知の上だけれど、最近の不妊治療の進歩は、まさに人間が神の分野にまでその手を広げていっているような気さへさせるまでになってきている。それは単にここで述べた体外受精の範囲を超えて、他人の卵子や精子更には他人の子宮を利用するまでに拡大していっているからである。そしてそうした技術はもしかしたらクローン人間に手が届くまでに近づいているのかも知れないのである。恐らくクローン技術は「できるかできないか」の科学ではなく、「やるかやらないか」の倫理だけを残しているのかも知れない。

 ところでこの体外受精の問題はさまざまな社会現象と結びつけて考えることができるような気がしている。
 その一つは現代の植物系男子と呼ばれるような風潮である。つまりセックスに淡白な(と言うかどちらかと言うと無関心な、場合によっては嫌悪的とも言える)男の増加である。
 人にとって子供を産むこととセックスとは必ずしも同じレベルにあるわけではない。もちろん原始的には妊娠がセックスの延長線上にあることは必然ではあっただろうけれど、人はいつの間にか生殖とセックスを切り離して考える生物になってしまった。皆無とは言わないけれど「子供を作るためにセックスをする」との行為は極めて非日常的な現象になってしまっているような気さえしている。だがそれでも基本的にはセックスなしに妊娠や出産は困難であることは事実であろう。だとすれば男がセックスに興味を失ってきている現状は必然的に妊娠数の低下を招くことになる。そしてそれは結婚した男女間においても同様である。

 もう一つは、これはいつもの飲兵衛仲間との他愛ない話題に過ぎないのだが、どうも最近は「答を求めたがる風潮が強い」ことにあるのではないかとの意見である。つまり、私たちの世代では必ずしも子供を産むために結婚するのではなかったけれど、「結婚すればそのうちに子供ができる」ことは当たり前のことだった。ところが今の若者はそうは考えないのではないかと言うことである。

 ここでのキーワードは「そのうち」である。子供のできない夫婦というのは昔からいたけれど、だからと言って私たちは子供を作るために結婚するなどとは必ずしも考えているわけではなかった。もちろん結婚して何年か経って妊娠しないことが気になる例はあっただろう。しかし、多くの場合結婚してしばらくして子が生まれ、その子が成長してやがて孫の顔を見ることは、結婚の目的であるとかセックスの結果だとかを考える以前の人生としての流れではなかっただろうか。

 そうした「そのうち」を人は許さなくなった。妊娠や出産そのものを自らのコントロール下に置こうと考えた。仕事優先で今は妊娠や子育てとはかかわりたくない、妊娠、出産、子育てなどで若い今を失いたくない、そんな思いが避妊や晩婚化へと結びついた。そしてある日突然に、子供が欲しいと思いついたり、高齢出産の問題点などに気づく。
 「今、子供が欲しい」、そうした思いに「子供はそのうちにできる」などの考えは到底及びつくものではない。「そのうち」の欠如はそのまま確実な妊娠、つまり体外受精へと答を求めるしかなくなってくるのではないだろうか。今すぐ欲しいとの思いはそのまま「子供と言う答」を求める行動に行き着くだろう。そのために医療としての環境は整いつつあるのだから・・・。

 実は私には、先にも書いたことだけれど、すでに種としての男の淘汰が始まっているのではないかとの思いもしているのである。男なしで人類がどのように種を保存していけるのかは分からないけれど、有性生殖の放棄が人類そのものの絶滅を意味するものではないような気がする。
 少なくとも人口が男女同数であるような種の組成はあまり意味がないように思う。それがその種にどんな影響を与えるかは分からないけれど、家畜の人工授精などでは種牛や種馬は僅かな数で足りている事実がある。人類だって生物としては同様ではないだろうか。そして将来的には男がなくても、つまり女だけで出産が可能であるような方向へと有性生殖が変化していく可能性だって否定はできないような気がする。

 それとも有性生殖といえども地球の生物の歴史としては一過性のものであり、今年の環境をめぐるCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議、名古屋で開催されている)で誰かが話していたように「人類は地球を必要としているけれど、地球は人類を必要としているわけではない」のだから人類そのものの淘汰もまた地球そのものとしてはとるに足らないできごとなのかも知れない。

 だいぶ前のことになるけれど、人間の男が生まれてくる背景に最初から男女の性差が異なっているのではなく、「女」と言う一つの性が分化してそこから男が派生してくるとの説を紹介した(別稿「男のオッパイ」参照)。そして最近こんなことを書いていた本に出会った。「男は生きるのに難しい性で、もともと男性であることが異常なのかもしれない」(斉藤学「男の勘ちがい」、p94)。

 最近の人のアレルギーは、私が素人だからそう思うのかも知れないけれど、ミルク、卵、そば、ピーナッツなどなど数多くの食品そして環境物質などへと増加しており、どこか尋常ではないように思える。そうした事実はどこか人間にとって遺伝子レベルで異変が起こっているような気さえさせる。こんなことを根拠もなしに言っちまったらおかしいと思われるかも知れないけれど、どこか種としての人類は地球における進化の過程から少しずつ排除されようとでもしているかのようである。



                                     2010.11.4    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



体外受精の意味するもの