先週発表した「勝つこと、負けること」の中で、人の持つ様々な能力の強さ弱さは決して勝ち負けと結びつくものではないと感じたことを書いた。だが書きながらその一方で、そうした強さ弱さの違いそのものがある意味多様性の一つの証左なのかも知れないと思うようになってきた。

 そうした意味では多様性こそが現代を示しているのではないかとも思える。だからと言ってその多様性を社会全体で承認することこそが開かれた平和な時代の象徴だなどと、四角四面に主張しようと思っているわけではない。だがどこか心の底では多様化への進化はもしかしたら間違っているのかも知れないとの思いもまた、熾き火のように残っていることも事実である。
 ほんの僅かな情報による判断ではあるけれど、世界の国々中で思想や宗教の違いやそうした違いを政府が一つの方向に誘導しようとしているなどの話題が上るにつれ、日本の今がなんと平和なことかと感じることが多い。それはまさに現代日本が多様性を自由に承認していることからきていることでもあろう。

 だからもちろんそうした多様性こそが人間社会の基礎にあることを否定したり疑問視したりするつもりはない・・・、そう思っているつもりであった。
 そはさりながら、どんな場合も多様性こそが正義なのかと問われるならば、「イエス」と断言する一方で、必ずしも「ノー」ではないのだけれど、どこかで「それはそうなんだけれど・・・」程度の煮え切らなさが残ってしまう気持ちも捨てられないでいる。

 それは多様性からくる一種の不安である。多様性の対語を単一性と呼ぶのは必ずしも正確ではないだろうけれど、話を単純化するためにそう呼ぶことにする。
 私たちはどこかで単一性の中で生きていることがある。それは例えるなら、習慣であるとか、法律であるとか、日本人意識などであり、言葉を代えるならそれは自分の中にある自分への承認であり束縛である。

 例をあげてみよう。例えば結婚についてほんの一昔前まで、私たちはそのことを人としての当然のことだと理解していたのではないだろうか。男女が一定の年齢になって結婚し子供ができ、やがてその子が成長して結婚する。そうした図式を私たちはなんの迷いもなく当然のこととして理解してきたような気がする。
 もちろん昔から結婚しない人はいただろうし、子宝に恵まれない夫婦が存在したことを否定するつもりもない。ただそれでも、そうした結婚から次世代の結婚へと続く道筋について私たちは極めて当たり前のこととして疑問を抱くことなく承認してきたのではないだろうか。
 それは例えば年頃で未婚の男女に見合いを勧めるような、いわゆるお節介な取り巻きがそれなり存在していることであるとか、結婚した夫婦に「赤ちゃんはまだですか」などとごく自然に聞いていたことなどからも分かる。

 そうした自然さは、逆に言うと本人にもそうした流れを無意識にせよ強制させていたとも言える。年頃になったら結婚するものだ、結婚したら子供ができるものだ・・・、そうした思いは回りの人々だけではなく私たち自身をも拘束していたと言えるだろう。
 そのことは逆に言うとそうした思いに沿うことが安心を与えてくれることでもあった。年頃になれば結婚することが当たり前だったのだから、その当たり前どおりに結婚すればよかったからである。結婚するかしないかなどと悩むことなどまるでなかったからである。

 そして現代、多様性が時代の流れになってきた。「結婚」という極めて日常的な意思決定についても、結婚するかしないか、結婚式を挙げるかどうか、新婚旅行に行くかどうか、夫の姓を名乗るかどうか、子供を作るかどうか、夫婦で共働きをするかどうか、家事や育児の分担はどうするかなどなど、様々な選択肢が目の前に提示されるようになってきた。夫婦別姓の論議もその延長にある話題であろう。

 そうした決められたレールから外れる人がいなかったわけではないだろう。だが私たちには社会全体がなじんできた道が、世間という名で目の前に示されていた。たとえそれが男の子なら「末は博士か大臣か」であるとか、「陸軍大将になる」のような現実離れしたものであれ、女の子の「お嫁さんになる」のようなささやかな願いであったにしてもである。
 だが選択肢の多様化はそうした既存のレールをあからさまに否定することになった。多様であることは自らの将来が多岐にわたっていることを示している。しかも何かを選択したその先にも、更に多様な選択の道が広がっている。

 人はどこかで常に何かを選択しなければならなくなった。そして決めるのは自分である。自己責任である。無限とも言えるようなパラレルワールドの世界へと、現代人は踏み出してしまったのである。私は多様であることを否定したいのではない。ただ、目の前に広げられた「多様」のメニューの前に戸惑い、混乱してしまっている人々の姿を身近に感じてしまうのである。
 駅前の食堂にはカレーライスと親子どんぶりしかなかったはずなのに、いきなりカラオケボックスの歌本のように分厚いメニューが目の前に示され、「さぁ、何を食うんだ」と急かされているような現代人の姿が、どこか「自己責任」による選択というイメージとはそぐわないような気がしてならないのである。

 多様化からの選択は素晴らしいことなのかも知れないけれど、あんまりなんでもかんでも「お前が決めろ」と言われてしまうのもどこかしんどいものがあるように思える。
 それは選ぶことへの不安であり、選んだことへの不安でもあるからである。それはまさに「結婚して子供ができて、そこそこ安定した仕事で人生を終える」、そうした一昔前なら安心できていたルートに安住できない世界が到来したと言うことでもある。

 「誰か俺の人生決めてくれ」なんて弱音を吐くつもりはないけれど、「欲しいとか欲しくないとか、出来たとか出来ないとか、産みたいとか産みたくないとか」、これは今朝の朝刊に載っていた新刊書の宣伝のキャッチコピーである(「だれが産むか」、橋口いくよ著、幻冬舎、朝日新聞 2010.2.13)。人はこれしきのことにも迷うのである。迷うようになってきたのである。自分の決定に安住できないのである。現代は無数の選択肢は提示されるけれども、そのなかに正解がないのである。見つけられないまま途方にくれているのである。

 決めなければならないのに決めたことに安住できない、そんな不安定な要素がこうした「多様化」の裏側には潜んでいるような気がしてならない。もしかしたら、現代人が求めている「自分探し」と言うのは、こうした安住できないでいる自分がいて、その中でもがきながら安住できる居場所を探そうとしている不安の代替語なのかも知れない。



                                     2010.2.13    佐々木利夫


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多様性に潜むもの