クジラやイルカの捕獲について書いたのは昨年暮れのことだったが(別稿「イルカ喰い」参照)、最近はマグロが食えなくなる話しで持ちきりである。現在カタールのドーハで開催されているワシントン条約締約国会議(ドーハ会議)で、モナコが提案した地中海を含む大西洋産クロマグロの国際取引禁止案にアメリカやEUなど30カ国近くが賛成していることから場合によっては禁輸が国際的に成立するかも知れないとの思惑があるからである。なんたって世界のクロマグロの80%は日本が消費している(2010.318、朝日新聞)らしいので、マスコミは明日にも食卓からトロが消えると大騒ぎである。

 どうやらドーハ会議での結論は、国際取引の禁止に賛成が20票、棄権30カ国、反対68票の結果となり、予想を超えた大差で否決されたようである(3.18日夕・日本時間同深夜)。日本政府も農林水産省も、マグロ漁にかかわる企業や団体なども安堵の姿勢を示しているとの報道が翌朝(3.19)のテレビから持ちきりである。だが私にはこの国際会議での結果に、どことなくしっくりこないものを感じてしまうのである。

 こうした問題提起がなされるたびに言われる言葉に「食は文化である」がある。冒頭に引用したイルカの話の時にも感じたことなのだが、こうした言い分はイルカもクジラもそしてマグロも、長い伝統に培われた日本人の食生活によるものなのだから、そうした習慣や伝統を理解しないままに特定の食習慣を批判するような意見は偏見によるものだとの意味を与えられているような気がする。
 そうした意見が分からないというのではないし、「食と文化」の論評には様々な意味が含まれているのだろうけれど、どこか「人が好きで食ってるものにケチをつけるな」みたいな傲慢さを含む一人よがりの感情が見え隠れしているように思えてならない。

 私には現在のクロマグロの資源がモナコの提案するように絶滅の危機に瀕しているのかどうかについての確信的な知識を持っているわけではない。もしかしたら日本が主張するように、きちんと資源管理を続けていくならば資源枯渇なんぞは発生しないと言うのが本当なのかも知れない。
 ただそれでもなお私が思うのは、こうした議題が国際的に提起されたという背景には、少なくとも大西洋産クロマグロの乱獲が海洋資源保護と言った観点から問題視される現状があるからだと思うのである。

 もちろん理論的には、国際取引の制限などをしなくても自主規制などの資源保護手段を万全にしていくことでそうした心配はなくなるのかも知れない。それでもなお、各国に委ねる資源保護活動だけでは効果は期待できないとする不信感みたいなものが今回の提案の背景にはあるようだ。そんな不信感が生まれるのも、漁業もまた国際的な商業活動のターゲットになっていることからすれば当然かも知れないし、各種の規制をかいくぐってなされる密漁や乱獲は自由競争の社会ではごく当たり前に発生しているからである。

 ただ私は、こうした規制には抜け道があるという観点からだけではなく、「食は文化である」との立場からも日本が主張する資源管理の発想にはどこか行き過ぎを感じてしまうのである。タコを「デビルフィッシュ」と呼んで食べる習慣のない国もあるように、マグロやクジラを食卓にあげるのは少なくとも日本の食習慣としての事実である。そしてそのマグロを「うまい、うまい」と食うこともまた日本人としての味覚でもあろう。

 だからと言って「だから、食わない奴は文句をいうな」と言い放っていいこととは違うと思うのである。一つの食が習慣へと定着していく背景には、自然の恵みを恵みとして受け取る生活の姿があったのではなかっただろうか。自然の与えてくれる元本から生じた果実を大切に受け取ることの中に、種としての人の生きる手段を見つけてきたことだったのではないだろうか。そうした生きる手段における自然との了解とは、決して元本には手をつけないとの約束ではなかっただろうか。

 確かに私たちはマグロが好きである。回転寿司の増加がそうした傾向に拍車をかけ、食卓に並ぶ刺身の種類も量も一昔前から見るなら驚くほど増加している。だからと言ってそうした「好きなものを好きなだけ食う」傾向が無制限に承認されるものではないだろう。

 確かに食は文化である。だがそこにある文化とは、地球の反対側まで出かけて買い漁ることや、「蓄養」と称して幼魚もろとも捕獲して「イケス」で脂漬けに育ててトロと呼ばせることをも含んでいるのだろうか。安い価格で売れる魚をふんだんに供給することを無意味だとは思わない。日本人がトロを「旨い」と言って好むこともまた否定はすまい。
 しかしそうしたことをも食文化と言う言葉の中に丸ごと含めてしまうことに、私はどこか違和感を覚えるのである。日本人はどこかで「食文化」と言う美名を掲げ、「安価で大量消費」の旗を振ることの中で、自然の元本にまで手をつけてしまっているのではないだろうか。

 私には「資源管理」と言う言葉そのものが、自然に対する人間の奢りを示しているような気がしてならない。今回の国際会議でクロマグロの国際取引禁止の提案は否定された。モナコが主張するような、クロマグロをパンダやシーラカンスのような絶滅危惧種に指定する動きを必ずしも納得できるわけではないけれど、それでも漁の世界にも資源保護の動きが出ていることの中に、私たちは「地球における自然の元本」を大切に守らなければならないとの思いをきちんと理解する必要があるのではないだろうか。

 仮に国際規制でトロが遠くなったとしても、クロマグロの回復がいずれ日本の近海への回遊の増加へとつながるのだとすれば、そして日本の漁師が近海でのマグロ漁を復活できるようになるのなら、それまでの間食卓のマグロを少しぐらい我慢をしたところでどうと言うことはないように思える。もちろん仮にそんな事態になったところで金持ちは銀座で高価なトロを腹いっぱい食い続けるかも知れないけれど、だからと言って我々が同じような楽しみを回転寿司で味わえないことを悲観するまでのことはないと思うのである。

 国際会議はマグロに続いて「宝石珊瑚」についても同様に、資源管理によって枯渇への道は防げるとの日本などの主張を容れて禁輸の提案を否決した。マグロや珊瑚がシーラカンスに変化するまで、人類は経済保護の立場から離れようとできないのだろうか。
 クロマグロや宝石珊瑚禁輸を、人類が「他にも人と同じ種が存在すること」に気づいた一つの契機として理解し、そうした思いを背景に私たちはもう少し地球に対して謙虚な思いで接していく必要があるのではないだろうか。



                                     2010.3.26    佐々木利夫


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トロが遠くなる