私がほんの少しだけれどクラシック曲が好きなことについては、これまで何度か書いたことがある。そして、最近はオペラの全曲やベートーベンの第九交響曲などのように演奏に長時間を要するものが少しずつ苦手になってきていることも同時に書いたような気がしている。

 最近のことである。NHK交響楽団によるベートーベンの交響曲第五番(俗称「運命」と呼ばれている作品である)を朝のテレビ番組で見る(聴く?)機会があった。テレビで鑑賞するというのは、ラジオやレコードやオープンリールのテープなどによってクラシックの世界に漂った私にしてみれば、いささか邪道のような気のしないでもない。とは言ってもこれまでも何度かコンサートにでかけて生演奏の機会に触れたことがあるから、生演奏こそかクラシックの本質であり、それを「邪道」呼ばわりするのは失礼であるかも知れない。クラシックというのは本来室内楽から始まって生演奏が基本であり、レコードとかプレーヤーとかスピーカーによる演奏の再生のほうがむしろ邪道ではないかと詰め寄られれば返す言葉がない。

 それでも自分でFM放送の受信アンテナを自作してみたり、時に短波放送の波打つ雑音に紛れた海外放送にまで耳を傾けてクラシック音楽を追いかけてきたこの身にしてみれば、そして生演奏の機会そのものが少なかった北海道内を転々とした転勤族にしてみれば、耳だけで聞くクラシックこそがクラシックであるとの思いもまた私なりの一つの思いでもあったのである。

 NHKのBS放送では、毎朝6時頃から時々7時過ぎまでクラシックが放映されている。毎日必ずチャンネルを合わせるほどの熱心さではないのだが、とりあえず朝起きて「今日の番組は何かな」程度の興味をもってリモコンを操作することが多い。
 そんなある日、前の曲がちょうど終わり引き続いて「運命交響曲」がスタートするタイミングにぶつかった。この曲は私のクラシックとの出会いでもあり、同時にクラシック入門ともなった曲である。クラシックなどまるで興味のなかった高卒の私に、新人研修施設の教官が宿直の夜にSP版(78回転のレコード)で聞かせてくれたのが最初だったからである。

 クラシック曲で何が好きかと誰かに聞かれたら、例えばシベリウスだのプロコフィエフだのと気の効いた作曲家を挙げ、しかも交響曲ではなくて例えば弦楽四重奏など比較的地味な曲を挙げるのがそれなりの通ぶった仕草なのかも知れない。また例えばベートーベンの曲にしたところで、ピアノソナタだのレクイエムなどと言った曲を挙げるほうが「いかにもクラシックファン」との評価を得られるかもしれないとの思いがどこかにある。そうした時に運命交響曲などは余りにも有名過ぎて、例えば幼稚園児に好きなケーキを尋ねて「いちご」の答を得るような幼稚さを感じるような一種の気恥ずかしさが残る。

 にもかかわらず私はこの「運命交響曲」が大好きなのである。通勤の朝、NHKのFMラジオのクラシックに耳傾けながら、時に指揮者振りを発揮して手を振り上げることもあることは先に書いたけれど(別稿「ステレオと指揮棒」参照)、この運命などは鼻歌程度にしろ全曲が頭に入っているくらいである。

 さて、指揮者やオーケストラによって多少の違いはあるだろうが、この「運命交響曲」の演奏時間は大体30分ほどである。だから先にも書いたようにオペラや第九交響曲などから比べたら比較的短い曲だといえる。朝は未だ早く、女房殿も食事の支度には少し間がある時間帯なので起き出すのはもう少し先だろう。テレビに向かっているのは私一人である。だからと言って大音量が必要なわけでもなく、テレビのスピーカーも最近は音質がよくなってきているから昔のように専用のアンプやプレーヤーで聞いた音質に劣ることもない。更に言うなら、私の耳はそれほど訓練されているわけではないから、数ある交響楽団の演奏のそれぞれに良し悪しや好き嫌いなどの区別ができるほどの能力も与えられていない。

 それにもかかわらず曲が始まって約10分くらいで、どこか落ち着かなくなってきたのである。それは決して演奏が気に食わなかったわけではない。時刻は朝の7時を過ぎ、このチャンネルとは別の「朝のニュース」が気になってきたのである。
 特に昨日から今朝にかけて大事件が勃発してその経過を知りたいと言うような状況下にあったわけではなく、ごく平穏な日常的な朝だった。それでも朝のニュースにチャンネルを代えたい誘惑が襲ってきたのである。こんなにも大好きだった曲が今かかっており、それもあと20分足らずで全曲が終了するにもかかわらず、私はとうとう最後までを付き合うことができず、ニュース番組へと画面を切り替えたのである。

 ニュースはいつもながらの政治がらみの話題から始まり、やがてスポーツ報道になった。そこで私はまた「運命交響曲」へとチャンルを戻した。そしてこの曲を終楽章まで聞いた。でもそれは中抜きの第五番でしかなかった。たかだか30分の演奏に、さしたる理由もなく私はきちんと付き合うことができなかったのである。

 恐らくそれは根気の問題であっただろう。一つことに30分を集中させるだけの気力が私に欠乏していた、ただそれだけのことだったということであろう。それにもかかわらずその集中できなかったことの中に、私はどうしょうもない根気の欠如を感じたのである。クラシック曲の中で一番好きな曲であるにもかかわらず、そこに私は30分の気力を注ぐことができなかったのである。
 そしてそれはまさに気力の喪失ではあっただろうけれど、その背景に紛れもなく私の老い影が色濃く貼り付いていることをどこかで感じていた。



                                     2010.12.8    佐々木利夫


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運命と根気