そんな時、医師はどんなふうに家族に臓器移植を説明するのだろうか。移植コーディネーターの役割や具体的な行動指針などまるで知らない私が、思い込みでこんなことを言うのは間違っているかも知れない。だが私が移植を推進したい立場にいる医師だとしたなら(この前提そのものがおかしいとの批判はあえて受けるけれど、どんな意味にしろ移植に否定的な立場にいる者がこうした場面に登場することは決してないだろうと私は確信している)、こんな風に家族を説得すると思うのである。

 「息子さんは只今脳死状態になりました。蘇生する望みは決してありません。このまま心臓死を待つか、それとも臓器移植によって他人の体の中で生き残るかです。どちらを選びますか。」
 この選択を求める言葉には実は大きな矛盾が含まれている。一方の息子の死は「心停止による確実な死」を意味しているのに対し、もう一つの「誰かの体内で臓器が生き続けること」にはあたかも「息子が生き残る」かのような錯覚を与えてしまうような響きを持っているからである。この二つは対比すべきものでも対比できるものでもない。たとえ他人の体内で息子の心臓が動き出したとしても、それは息子が蘇生することとはなんのつながりもないからである。

 しかも説明を受けた両親は「脳死」から「心臓死」にいたる僅かなはざまの中でその決断をしなければならない。息子の死をゆっくりと自分の中で納得させ、その上での決断では遅いからである。暖かい体、動いている心臓、そうした状況の中で家族は決断しなければならない。そんなときに移植の話をされたら、両親の心は揺れると思うのである。あたかもそれは「死」と「蘇生」のいずれかを選べとの決断を求めているのと同じではないかと私には思えるのである。
 「そう言えば、あの時息子は移植してもいいと言っていた」、この記憶に両親はすがりつく。医師の説得はこうした思いを更に加速する。だがその説得は切迫した移植へのタイムリミットの中では、説得に名を借りた心理的な強制、移植承諾への脅迫、片道切符への誘導になっているのではないだろうか。

 そして数日か数週間か数ヶ月を経て、「生きている心臓を息子から取り出したこと」が再び家族を苦しめることになることはないのだろうか。正しいと信じた判断が、決断したことへの後悔につながることはないのだろうか。確かにあのとき息子はテレビの臓器移植のニュースを横目に夕飯を食いながらにこやかに話していた。「いいよ」と言っていた。でもその「いいよ」は、本当に自分の臓器を提供することをきちんと理解しての笑顔だったのだろうか。友達には、ガールフレンドには、酒飲みながら、カラオケで歌いながら、他人には私たちへとはまるで違った話をしていたのではないだろか。もしかしたら移植を承諾した私の決断は早まったのではないか・・・。

 だがことは既に手遅れである。今更息子の思いを友達や恋人を尋ねて確認してみたところで手遅れである。仮にその決断が間違いだと分かってしまったなら、なおのこと後悔を重ねるだけにしか過ぎない。
 死者といえども生き残った人の心の中ではなかなか死んでいかないのである。死を理解することと、脳死を告げられたベッドに横たわる我が子の鼓動や握った手のぬくもりの記憶とは決して矛盾しないのである。人は生き残った者、特に家族の中ではゆっくりとしか死んでいかないのである。
 「我が子の死に僅かにもしろ私は係わってしまったのではないか」、そんな後ろめたさが私にはいつまでもその両親に残り続けるように思えてならない。

 B さてさてもう一つ、三つ目の気がかりは「臓器は物か」である。これはマスコミの報道の仕方に影響された結果によるものかも知れない。移植のゴーサインが出た。臓器は「心臓」、「両肺」、「肝臓」、「二つの腎臓」、「膵臓」、それに「眼球」だと聞いた。提供者の病院は関東甲信越地方とだけで不明であるが、提供を受ける患者の所在地は心臓は大阪、両肺は岡山、肝臓は東京、一つ腎臓は群馬、もう片方の腎臓と膵臓は愛知だそうである。まさに臓器は四方八方へと散っていく。

 テレビはそうした移送にもカメラを向けていた。なんと呼ぶのだろうか、釣りに使う保冷箱みたいなものを一人または二人が抱えてヘリコプターへ、飛行機へ、自家用車へ、新幹線へと急ぎ足である。その保冷箱の中にそれぞれの心臓や肺が入っているのであろう。

 そのことをとやかく言いたいのではない。ただそうした報道にどことなく違和感が残ってしまったのである。「ああ、あの箱の中に氷付けされた心臓が入っているんだな」との思いが、どこかその心臓を命とはまるで別の「一つの物」にしてしまっているかのように感じさせたからである。
 同じ病院の同じ手術室で、脳死の患者と移植を受ける患者が並んでいて、心臓の摘出と移植とが隣りあわせで行われる、そんな風景を望んでいたわけではない。しかも一つの体からはいくつもの臓器が摘出できるのだし、その摘出に家族が納得しているのなら、一つを九州に、一つを北海道に運んだところで何の異を唱えることなどあろうか。

 それはそうなんだけれど、箱をかついでヘリコプターや新幹線に乗り込む人たちの姿を見ていて、そしてあの箱の中には腎臓が入っているんだなと思うと、そのことに「物の輸送」と臓器移植とがどこかかみ合わないように感じてしまったのである。

 私には暗い霊安室の片隅で、目を抜かれ、心臓も肺も、体中の内臓のことごとくを抜かれた遺体が、たった一人で、空っぽの腹の上を通り抜ける風に、「寒いよう」、「空しいよう」、「寂しいよう」、「父さん母さん、何にも見えないよう、何にも感じないよう、こんな筈じゃなかったよう」と呟く姿がどこかで重なってしまうのである。もし、臓器提供が脳や耳や鼻や血管や脊椎や腸や筋肉、そして血液などにまで及ぶようになるのだとしたら、遺体そのものの存在すら危うくなってしまうのだろうか。それは決して「どうせ焼かれて灰になるのだから」の一言で解決するものではないように私には思える。

 臓器からは人格が消えてしまうのかも知れない。人間を肉体と魂とに分けてしまうのだとするなら、脳死は魂の死なのだろうか。そして肉体だけの人間は物となり、社会的な共通財産、そして本人や家族の承諾を要することなく、国がその「物」を自由に処分(火葬にしろ移植にしろ)できる。
 こうした理論付けをすることも可能かも知れないけれど、日本人には乱暴な考えかも知れない。昔見た「ロミオとジュリエット」の映画に、死んだ二人の遺体をその場に置いたまま「なんと悲しいことか、二人の思い出を語ろう」と立ち去る両親の姿を見て、彼我の違いを感じたことがあった。死体を物として割り切る姿に日本人は簡単についてはいけないのかも知れないと感じたが、臓器移植にもその国の国民の死生観に合わせた仕組みが必要なのかも知れない。

 どこまで移植するのか、残された遺体の処置は、臓器の搬送方法は、などなど、そうした細かなことまで含めて、死者の尊厳をきちんと守るようなシステムが必要になってくるのではないだろうか。臓器を単に「物」にしてしまうことにどこかで歯止めをかけ、臓器の一つひとつが「命のかけら」として扱う気持ちとその気持ちを遺族に伝えること、伝えられるようなシステムを探っていかなければならないように思う。

 そしてこれもまた大切だと思うことなのだが、「臓器移植を必要としている患者がいる」だとか「臓器の提供がなければその患者は死んでしまう」などの思いは、私には臓器移植の場面に登場させてはいけないのではないかと感じている。だから私は、提供の意思を書面に限るとした改正前の臓器移植法のほうが理解しやすいし、提供者やその家族の納得が得やすいと思うのである。それにより仮にドナーが減り、移植によって助かったであろう患者の命がたとえ減少することがあったとしても・・・、



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                                     2010.8.11    佐々木利夫


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