時に人は悪逆非道な者を、残虐で残酷な者を、更には情け無用の極悪人を、「人でなし」、「けだもの」と呼ぶことがある。そこにあるのは、恐らく人として当然に求められるであろうありうべき姿を片方に置き、その対極に「人間でない悪」を置いて比較しようとするものであろう。だが少し考えてみるとそうした「人でなし」の部分、つまり人間が持っている少し普通でない部分こそが「人としての悪の部分」であり、だからこその「人」なのかも知れないと思うことがある。

 ライオンやハイエナが逃げ惑う小鹿を追い詰め止めを刺し、口の周りを血まみれにしてその獲物で腹を満たす、そうした弱肉強食の世界は一見残酷さに満ちているかのように見える。だが食物連鎖の仕組みや「けだもの」と呼ばれる猛獣の子育てをしている姿などをみていると、弱肉強食とは一つの死が他の命の継続に直接つがっていることを示している。それに比べるなら、戦いに明け暮れる人間の姿にはそんな救いはないのではないだろうか。人の悪は、人であることそのものの中に存在しているように思えてくる。

 明暗だとか光と影、左右であるとかあっち側とこっち側などなど物事を二つに分けて考えることは、説明として分かりやすいこと、そして他者を説得しやすいことなどから私たちはけっこう日常的に多用している。でも本当にそうなのだろうか。そうした二元論がどこまで現実の私たちを律していけるのだろうかと、この頃少し疑問に感じてきている。
 これまでも正義が時としてとても迷惑な行為だったり、善意を装った押し付けがましい行為になる場合のあることは幾度となくここで触れてきた。それはまさしく善悪の評価が人間特有の資質にあることを意味している。でも人が善悪を決めると言ってしまっていいのだろうか。人だけが善悪を決めると思い込み、その線引きの決定権が人だけにあることをどこかで錯覚してるだけに過ぎないのではないだろうか。

 本当に人は善悪を決めることができるのだろうか。究極的な意味で「人が人を殺すのは悪だ」との規範を、私たちは人としての当然の規範だと信じ、時に信奉している。でも少なくともそれが絶対的な真実なのかどうかは極めて疑わしい。死刑の執行は、理屈を言えば法律が人を殺すのであり、裁判制度が殺したのだと言えるかも知れない。だが、少なくとも具体的なその執行は人が行うだろう。たとえそれが電気椅子のスイッチにしろ、数人による誰の弾が命中したのかを分からなくした銃殺にしろ、絞首台の踏み板を落とす行為にしろ、薬物の注入などどんな手段によるにしろそれは人の行為になるだろう。つまり法律は六法全書の中にあるだけであって、具現的な意味では人を殺せないのである。たとえライオンの生贄にして食い殺させる行為を選んだところで、その檻のドアを開けるのは人だからである。

 「気に食わない奴がいる」でもいい、「あいつは邪魔だ」でもいい、場合によっては「誰でもいいから殺したかった」でもいいだろう。どんなに身勝手な思いにしろそう思う人間があなたを殺そうと銃を片手にあなたの家の鍵を壊して侵入しようとしている。それを阻止するために、あなたは手持ちの銃を構える。銃がなければ手近な台所にある包丁でも仕方がない。一番単純に理解できる善悪の対決である。侵入しようとしている者は加害者たる悪であり、迎え討つあなたは自衛する善である・・・、と私たちは単純に考える。でも、あなたが自衛に成功して相手を殺してしまったとき、それもまた「人が人を殺す」ことに違いはない。たとえ「殺さなければ殺されていた」ことが確実であっただろうとしても・・・。

 刑の執行や自衛に伴うような個対個の問題ばかりではない。長崎、広島の原爆投下や遠隔操作によるミサイルの発射にしたところで、ボタンを押す行為と核弾頭の爆発による人の死とは直接に結びついている。アフリカや中東などで、内乱なのかテロなのか、はたまた反乱なのか私はきちんと理解しているわけではないけれど、空中に向って携帯式のミサイルみたいな砲弾を撃つ場面がよくテレビで報道される。そこには着弾地における死傷の姿を見ることはないけれど、かと言ってその発射が死と無関係なわけではない。発射ボタンを押す行為と、無心に笑っている赤ん坊を目の前で剣で突き殺す行為との間に何か違いがあるのだろうか。

 ヒトラーを暗殺しようとする行為は、たとえそれがアウシュビッツの悲劇やポーランドの戦火を免れることに結びついたとしても、人が人を殺そうとする行為に違いはない。どんな戦いにも、表現する言葉こそ違っているかも知れないけれど、常に「聖戦」の冠詞が付きまとっていたことは今昔を問わず歴史が証明しているところである。そうした「正義のための戦い」の思いは、例えば私たちや国連決議がテロリストと呼んでいる指導者の信念やその配下で自爆で多くの市民を巻き込もうとしている者の抱く祖国愛にとっても少しも違いはないかも知れない。

 だとするなら、私たちが金科玉条にしている「殺すなかれ」の信条にしたところで、「一定の条件の下では・・・」との枠を当てはめなければならないことになる。つまりは「殺すな」との人間本来の信条みたいに思われているような事柄についてだって、その善悪に絶対不変な基準などあるわけではないことが分かる。その基準もまた、誰かが専制的なお好みで決めるかそれとも世間とか社会とか常識といった不確かな枠組みの中で決めるかはともかく、可変的なボーダーライン上で揺れ動いていることになる。

 その基準線を誰がどのように決めるのか。神だというならそれでもいいだろう。その神を信じている者にとって、神の示す基準は絶対的なものとして信じられるかも知れない。だがその神を信じない者にまでその価値観を押し付けるのは、信じている側の傲慢である。専制君主にその判断を委ねるのもいいだろう。彼の意思に従うことが善であり、逆らうことはすべて悪であると割り切ることも一つの解決ではある。だが私たちはそうした専制を悪として排除する道を選んできたのだし、その専制君主の意思の持つ意味と神が持つであろう意思の意味とは、果たしてどこがどこまで違うと言っていいのだろうか。

 それとも善悪の基準の中に、例えば「絶対的な悪」だとか「相対的な悪」などといった二つの考えを持ち込むべきなのだろうか。私はそうした考えになんとなく魅力があるように思えて、それを探るためにここでは「殺すな」の命題を持ち込んでみた。つまり「人を殺す」ことの中にも絶対的、相対的を持ち込む必要があるのだろうかと思いであったのだが、結局それもその基準をどこに置けばいいのかのジレンマに私を陥いれることになっている。それはそのまま現代は「善」であるとか「正義」などと言った価値判断が揺らいできており、それにしたがって「善でないこと」、「正義に反すること」としての「悪」の基準もまた揺らいできていることにあるのだろうか。
 そしてこれは別に善悪に特有なものではない。盗むな、欺くな、嘘をつくな・・・などといった私たちが信じている価値観のみならず、「買占めをするな」だとか「みんな仲良く」みたいな望ましい人間像として抱いている価値観にまで及んでくる。

 またぞろ私の悪い癖が出始めてきた。まだ一度も読んだことがないのだけれど、哲学者ニーチェの著作に確か「善悪の彼岸」と称する作品があったはずである。この本について私はタイトルだけしか知らず、ここで書いてきたことの解決の糸口になるのか、または少しは関係があるのかどうかについてもまるで知識がない。それでも先日のカントの繰り返し(別項「カントへの無謀な挑戦」参照)になることをどこかで予感しつつ、触れてみたいとの誘惑に駆られている。



                                     2011.6.9    佐々木利夫


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