思っただけでまだ何も手をつけていない段階なのに、それでもどこか後悔し始めている挑戦がある。これまでに何度か挫折したことのある難解な書物へのまたまた懲りない挑戦である(別稿「しまった・・・、ダンテ」、「ダンテ、やっぱり・・・」参照)。今回のその挑戦はなんとカントの哲学書、「純粋理性批判」を読んでみようかと思いついたことであった。この書については1〜2度ここへタイトルくらいは引用したことがあるような気がしているけれど、そのいずれもが、「そんな難しい哲学書など題名だけで十分」みたいな登場であった。そんな気持ちは今だって少しも変らない。この哲学書を引用したり紹介したりした本を読んだことはあるけれど、そのいずれもがとにかく難解だと伝えており、素人には歯が立たないであろうことを予感させられる内容になっていることが多かった。

 にもかかわらず私は、そこから引用された文章を、さも知ったかぶりに孫引きするだけで、いかにも「私はカントを少しはかじったことがあります」みたいに知識をひけらかしていた。まるで片鱗にしろカントを引用することで、いっぱしの哲学者気取りをしていたということかも知れない。
 もちろん多少かじったのは事実である。哲学用語辞典などで触ったのも事実である。でも実を言うと、まるで理解できていないのが本音でもあった。

 それが先週発表した「大震災への援助と善意」の中でついついカントを引用してしまったのがきっかけで、私はまだカントの本を一つも読んでいないことにふと気づいたのである。カントの著作は多数あるらしいけれど、私が良く知っているのは、タイトルだけではあるが「純粋理性批判」である。まあ、カントの著作の中では一番有名な書物なのかも知れないし、逆に言えば私の知っている唯一の著書であるとも言える。

 と言ってもこの著書が私の手元にあるわけではない。読む前から後悔の兆しが見えているくらいだから、わざわざ購入するのもどこか気が重い。もちろん私の中には金を出してこそ熱中できる、との思いがないではない。ただで貰ったり、借りて手元に置くようなスタイルでは、どこか熱心さが薄くなり、やっぱり損得考えて投資して元を取るくらいの意気込みがあってこその採算だみたいな気持ちがないではない。さて私のこの挑戦にかける意欲の強さは、この本の購入の意思によるかよらないかの選択の場面でもある。

 とりあえずどの程度のボリュームの書籍なのかの見当をつける必要がある。本の価値をサイズや厚さで計測するのは無礼だとは思うけれど、薄い文庫本一冊程度のものならば読破にそれほどの時間を要しないだろうし、なんたって安価でもあろうから、もし仮に途中で読破を放棄したところで損失は少ない。逆に厚くて数冊に分かれているような本なら、見ただけでげんなりするだろうし、読破にも時間がかかり高価でもあろうから読了を諦めたときの損失も大きいことになる。

 それでまず見当をつけるためにインターネットで札幌市内の図書館の蔵書から検索してみた。なるほど、それほど人気がないだろうと予測していたにもかかわらず、30数冊の在庫がピックアップされ、しかも貸し出し中のものも数冊見受けられた。それでも貸し出し可能なものもかなりの冊数残されているので本のスタイルの概要を調べてみることにした。どうやら狙う書籍はかなり分厚く、しかも2冊から4冊ものヴォリームに分かれているようだ。つまり購入した場合には高価であり、しかも読破できなかったりもしくは理解できなかった場合には、その経済的損失も大きいことが想定されたのである。

 そこで図書館を利用することにしたのだが、さてここで問題となったのが翻訳者の選択である。原典で読むなどまるで不可能な私だから、日本語訳に頼るしかない。ところが図書の概要を示した蔵書の紹介にはそのほとんどに翻訳者の名前が書いていないのである。別に翻訳者についての知識など皆無の私だから、誰であろうといいのだが、書かれていないのはどこか不安である。そうこうしているうちに「天野貞祐」全集の中にこの著書が上下二冊に分かれて収録されていることが分かった。

 天野貞祐についての知識も私にはほとんどないけれど、昔の著名な思想家であることくらいは頭の隅に残っていた。しかも誰も借りていないので即座に予約できる状態にある。二冊もまとめて借りるのはまさに無謀である。まず上巻を申し込んだところ、数日して近くの図書館から天野貞祐全集第八巻が到着した旨のメールが入った。500ページに近いこの一冊は、それほど閲覧されていないらしく新品のように思えた。だが本を開いてすぐにこの本が1999年に発行された復刻版であり、原典は1921年、私の生まれる20年近くも前に発刊されたものであることが分かった。つまり今から90年も前の翻訳書だということである。でも手元に届いたのだからまずはページを繰って壮大な挑戦である。

 だがその挑戦は端から私の予感どおりの結果を招くことになった。なぜならこの本は「人間の理性はその認識の一種類に於いて特殊な運命をもってゐる・・・理性は斥けることができず、さればといって、それを回答することもできぬ問題によって悩まされるという運命をもってゐるのである。斥けることができぬといふのは問題が理性そのものの本性によって理性に課せられたものであるからで、回答できぬといふのは、それが人間の理性のあらゆる能力を超えてゐるからである。」(同書P15)で始まっていたからである。

 残念なことに私にはこの冒頭の数行からしてまったく理解できなかった。日本語としてそれほど難解な用語は使われていないとは思うのだが、何を言いたいのか、ここから何をつかめばいいのか、そんなことさえもこの数行から私は何一つ理解できなかったのである。
 それでも冒頭の数行で挫折してしまうのはいかにも癪である。少なくとも「読んだ振り」ができるくらい、つまり飛ばし読みにしろこの本の半分くらいまでは進まないと、かつての哲学青年としての沽券に関わろうというものである。

 「・・・然し私がここで批判といふのは書物や体系やの批判ではない。却って・・・理性が一切経験から独立して追求することのできるあらゆる認識に関しての・・・理性能力一般の批判である。従って形而上学一般の可能不可能の裁断、形而上学の源泉、範囲、及び限界の確定である、が、それはすべて原理に基づいてなされるのである。」(同書P18)。

 ここまで読んでもう駄目だと思った。少なくともここに私の知らない言葉は一つもない。難しいながらも「形而上学」の用語だって生半可ながら理解しているつもりである。それにもかかわらず私の能力はこの翻訳についていけないと感じたのである。

 同じように難解な文章であっても般若心経全276文字程度のヴォリュームであれば、しゃにむになんとかしようとの意欲が湧いたかも知れない。だがしかし、私の目の前にあるのは500ページ×2冊の目のくらむような断崖絶壁であり、私の辿り着いた位置は僅かにその3ページ目にしか過ぎない。ここから眺める絶壁は無限遠とも言える高さを持って目の前に立ちふさがっている。
 それでも更なる数ページへと私は挑戦してみた。それでも活字ばっかりのこの哲学書は頑なに私の登攀を拒んでいる。活字を追っていくことでページは僅かにしろ進まないではないけれど、読んでいることの実感がまるで湧いてこないのである。かくして私のカントへの挑戦は、予感したとおりまさに無謀のままで挫折を招来したのであった。

 最近では、きちんと覚えてはいないのだが、「超訳ニーチェ」などと題した庶民にも理解しやすいように翻訳された哲学書が出版されそれなりに人気を呼んでいると聞いた。理解しやすいことと著者の思想を正確に伝えていることとが同じ次元で言えるかどうか疑問ではあるけれど、それでもまるで理解できないよりはいいのではないだろうか。
 カントへの挑戦がそもそも最初から私の能力を超えた作業だったかも知れないし、こんなことを言うのは自らの実力を棚上げして言い訳しているのかも知れないけれど、もしかしたら私は翻訳者の選択を誤ったのかも知れないとも感じている。「分かりやすい翻訳」そのものがこのカントの著書には無理なのかも知れないが、最近読んだマイケル・サンデルの著書(「これからの正義の話をしよう」)のカント論には少しにしろ同調できる部分があったので、もしかしたらそのうちに「超訳・純粋理性批判」みたいな翻訳書が出てくるかも知れない。そんな期待を込めつつ、今回の私の挑戦はまさに絵に描いたような「無残な挫折」であったことを私自身にしっかりと報告することにしよう。



                                     2011.4.20    佐々木利夫


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カントへの無謀な挑戦