3.11の巨大地震による福島原発の崩壊で、放射能汚染が福島から東京にまで拡大している。そこで政府から発表される安全基準についてどこか変でないかと書いたのはつい半月ほど前のことであった(別項「放射能の安全基準」参照)。これはその続きである。

 放射能の測定は全国で行われている。その数値はホームページで毎日発表されているが、福島を中心とする風向きはどちらかというと北向きや東向きが多いらしく東京方面への拡散傾向が見られる。したがって北海道への影響はまだ見られないけれど、だからといって無関係ではない。

 実は数日前に近くのスーパーでキャベツを買う機会があった。キャベツは二種類置いてあって、一つは九州産、もう一つは茨城産であった。販売している男の店員が嘆いていた。茨城産には放射能汚染の危険がないとの産地からのお墨付きがあるにもかかわらず安くしないと売れないのだそうである。まさにそのとおりに茨城産の置き場の前には安全宣言らしい紙が掲示してあり、小さめではあるが値段も二つで150円と九州産の1個290円よりもかなり安価である。店員の狙いは安全かつ安価を喧伝することでとりあえず茨城産キャベツを売り切ってしまいたいらしいのだが、どうやら思惑通りにはいかないようである。そして実は私も九州産を手にしたのであった。

 そしてそのときふと安全宣言とはいったい何なのだろうかと思ったのである。もちろん先週書いたように、放射能汚染は累積的なものだという思いもあったのだが、それ以前にそもそも「安全」とされる基準そのものについて今一度考えてみる必要があるのではないかと感じたのであった。

 原発事故に対する後始末は、さまざまな手立てを講じている最中だが、私たち素人が見る限り遅々として進んでいないように思える。それどころか原子炉に注入した海水などが放射能に汚染されて、海へとダイレクトに流れ込んでいるなど、原子炉を取り囲む「放射能を漏らさない」ためのシステムそのものが亀裂などに犯されている様子がうかがえる。しかも原子炉燃料の崩壊は炉内に注いでいる水から水素と酸素の分離を誘発し、場合によっては「原子炉爆発」みたいな恐れさえあるとして炉内に不活性である窒素ガスを封入する作業も4月7日早朝から行われた。注入している水は汚染されたまま工場内に蓄積される一方であり、その汚染水を保存するために低濃度レベルとは言いながらも放射能に汚染されている別保管されている水を海中へ放出すると公開した。またこれ以外にも汚染された水の一部が炉外へ漏れ出している疑いがあるなどまるで先の見えない状況にある。

 つまり原子炉から漏れている放射能を、とりあえず封じ込めて外部への拡散を防止すること、そして拡散してしまった放射能(汚染された土地や飲料水や作物、魚介類などを含む)を今後どのように処理していくのかが目の前の課題である。にもかかわらず現状は、封じ込めすらも先が見えていないのだから当面この状態(つまり放射能物質の拡散)が続くこと、更には悪化することさえあるかも知れないことを前提にしていかなければならないように思える。先が見えないとは、解決の見通しがつかないことを意味している。それはまさに放射能にさらされる人たちに対する汚染対策についての見通しもないことでもある。

 さてこうした場合に頼りになるのは、まさに安全基準である。しかも対象者は、原発の影響をまともに受ける近隣市町村の住民のみではない。放射能物質(恐らくちりみたいなものであろう)は、原発内に止まるものではなく、雪になり、雨に溶け、風に乗って周辺へと拡散していくことは当然のことである。気象は風任せである。発生源は特定しているが、まさに汚染は風の吹くままに拡大していき、範囲を広げながら地上へと撒き散らされていくのである。それは当然に陸地のみでなく海上へも拡散していく。

 海への汚染は更に深刻な状況を招いた。汚染された水が直接海中へ流れ込み、その上原子炉を管理する東京電力、そして政府も含めて汚染された水の海中投棄を決断したからである。もちろんその背景には、保管する容量が他にないので、「より高濃度に汚染された水」を保管するためには汚染が低レベルにある貯水槽を空にしなければならない」とのまさに合理的(?)な理屈付けがある。1万トンとも言われるこの放水が、これまでに漏れ出た高濃度の水や空中から降り注いだ放射能の影響をどの程度受けるのか私は知らない。
 そして思うのである。まさにこの「私は知らない」ことこそが、国民の不安を生み、いわゆる風評と呼ばれる行動を誘発しているのでないだろうかと。

 政府もやっと「積算放射線」との言葉を使い出した。つまり今回の放射能災害は一過性の基準で判断すべきものではなく、累積による影響により判断すべきだとの見解である。私が先に「放射能の安全基準」で述べたように、まさに加重的・累積的な影響による基準を示すべきだとの考えに、政府もやっと気づいてきたというべきであろうか。

 それは単に政府や識者などが「安全です」、「大丈夫です」、「何も心配することはありません」などの言葉を繰り返すことでは解決しないのである。私の知識もまだ生煮えではあるが、少なくとも放射能の影響は「煮ても焼いても」軽減することはできず、また何らかのフィルターを通すことでも解決しないと聞いている。つまり放射性物質の性質によるらしいが、半減期という期間を目処として人体に影響のなくなるまでの時間が必要であるということである。そしてその半減期はものによっては数分、数日のものもあるけれど、数十年、数万年という途方もないものまである。これはつまるところ、数日のものならその何倍かの期間を身の回りから離しておくことで足りるけれど、時間による解決は事実上不可能であることを示しているのである。

 ならば一番私たちが知りたいのは、「どの程度の放射能をどの程度の期間なら浴びても大丈夫なのか」の情報である。それについて政府は「直ちに健康に影響はない」を繰り返すのみで、科学的な根拠を示そうとはしない。時に研究者らしい専門家も登場するが、彼らも「ここまでは大丈夫」との保証を与えることは決してない。せいぜいが「そんなに神経質になることはありません」くらいの話でしかない。

 その程度の情報で国民は果たして安心できると政府も識者も信じているのだろうか。すでに海外では福島原発に近い地域で生産される食品の全部について禁輸を決定している(中国、台湾、韓国、シンガポール、オーストラリア、フィリピン、ロシアなど、2011.3.26、朝日新聞)。また中国では原発事故後に来日した日本人2人から「基準を大幅に超える放射線が検出された」として病院へ搬送されたという(同日、同紙)。
 それに対して国は、「それぞれの国によって基準が違うから」と語るのみである。そして国内も原発から20キロから30キロメートルまでを屋内退避と指示したにもかかわらず、「必要なら自宅へものをとりにいってもいい」との緩やかさを示した反面、圏外への自主的な避難を認めるなど、どこか対応が一貫していない。

 こうした政府のあいまいな対応を見ていると、もしかしたら「安全基準」そのものが信頼できないのではないか、政府はきちんとした科学的根拠を持つ安全基準を持っていないのではないか、との思いがしてくる。そして「積算放射線」についても、結局はある特定の地域の「土地」のみを対象とした「3月23日から4月3日まで」の累積値にしか過ぎないことが分かる。
 それぞれは安全基準の範囲内にあるのかも知れないけれど、テレビは盛んに外出したら衣服や頭髪のほこりを払えだとか、外気との交流を避けるために換気扇は回すななどと言っておきながら、それらと政府の対応とはどこかちぐはぐである。
 私は自然界に存する放射能や日常口にする水や食料、場合によって呼吸で取り込む数値なども含めた上で、さらされる期間を加味してその影響を判断すべきだと思うのである。それが「積算」の正しい意味だと思うのである。

 もしかしたら正しい意味での「放射能の安全基準」など、わが国も含めてどの国も持っていないのではないか、と私は思ってしまう。放射能は目に見えないこともあって、自分の力で予防することは非常に困難である。そうした場合に一番確実で効果的な手段は、「君子危うきに近寄らず」しかないのではないかと思う。見えない敵は、がんや白血病や子供への遺伝的な影響(死産・奇形などを含む)など多くの危険性を持つと聞く。だとすれば、「絶対安全」を確信できるような信頼できる機関からの根拠を示した発表がない以上、少しでもその恐れのある原因に近づかないこと、それこそが私たちに与えられた一番確実な手段ではないだろうか。たとえその手段を「風評」などと揶揄され批判されようとも、「産地を救うためには安全基準値内のものであれば口にします」みたいな変な応援をするよりはずっとずっと合理的でないかと思うのである。

 なんたって、「安全基準値内」といってもそれは積算値ではないし、多くの報道からも分かるように多少なりとも放射能に汚染されていることは確実だからである。仮に100が基準値だとする。スーパーの店先には自然放射能程度の人体には絶対に影響がないと思われる九州産の野菜と、安全基準値内として安全宣言のなされた福島産の野菜が並んでいる。あなたはもしかしたら汚染度が80かも知れない食品を、本当に積極的に購入し汚染されていない食品と区別することなく喜んで食べるだろうか。私は「基準値以下」であることと「安全」であることとはまるで違うと思うのである。もしお疑いなら、九州産も安全宣言のされた福島茨木産なども含めて全部の商品に実際の放射能測定値を産地とともに表示してみるがいい。

 「国民は風評に惑わされず冷静に・・・」と政府もマスコミも口を揃える。その通りである。「直ちに影響はない」との言葉をデータなしに頭から信じるか、それとも万が一を考えて我が身なり我が子に置き換えて自らの判断を選ぶか、今こそ冷静に考えていかなければならないと思うのである。
 もう一度言う。「君子危うきに近寄らず」は、古めかしいけれど未知の危険に対する確実な対処法なのである。



                                     2011.4.7    佐々木利夫


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再び安全基準と風評