どうして「絶対安全です」だとか、「少しも心配はいりません」などと断定できないのだろうかと私は思い、そうした事実の存在はむしろそう話す人たちに、断定するだけの根拠や証拠がまるでないことを示しているのではないかとの思いを抱かせる。原発事故の放射線の拡散に伴う行政や学者、そしてマスコミなどが対応している姿勢についてである。
 それは福島第一原発事故で放射能汚染が周辺に広がっているのではないかとの疑問が提起された直後からである。「直ちに影響を受ける心配はない」が最初の言葉だっただろうか。それ以降、放射能は農作物にふりかかり、水源地の水を汚染し、近隣住民を遠隔地へと駆逐した。放射能汚染はやがて肉牛に与えられた餌の稲藁を通じて全国に拡散するようになっていった。それ以外にも水素爆発で破損した原子炉の冷却水、海水に流れ込んだ大量の放射能などなど、対策はとられそれなりの効果は上がっていると報道されているものの先行きは依然不透明なままである。

 毎日のように政府や識者を通じて状況が流れる。だがどんな専門家の解説も、「絶対安全」を口にすることはない。「・・・福島では、検査をした子の45%に甲状腺の被曝が確認されたという。専門家は『問題となる値ではない』と説くが、そうであっても心の重荷はつきまとう」(2011.8.19、朝日新聞、天声人語)。この問題提起をどう捉えたらいいのだろうか。甲状腺被曝の事実と、問題となる値ではないとする専門家の見解とを私たちはどこまで対比できるだろうか。

 放射能被曝は直接的には火傷のような症状であり、次いで長期的な細胞への被曝(具体的にはガン発症の危険性)、そして遺伝子に対する影響(子孫への遺伝)である。だが直接的な影響に関しては、原子炉に直接携わっている作業員などにも、またそれ以外の一般住民とも今のところ無関係である。それは単に被曝の量の問題ではなく、そうした症状が誰からも出ていないことからも明らかである。

 さて次は被曝による長期的な影響(ガンなどの発症)である。これはまさに被曝した量と受けている期間との累積によるものである。それが現在報道されている放射能量であり、多くの国民が我が身の問題として危機感すら抱いている事象なのではないだろうか。
 そうした危機感は更に遺伝の問題へと続く。遺伝子のDNAに傷がついて子々孫々に障害が発生する可能性である。これはまだ可能性だけでだれも実証的なデータを持ち合わせてはいない。仮にそうした事実があったとしても、それを因果関係で結びつけるのは難しいかも知れない。だがそうした可能性を誰も否定できないのもまた事実なのである。

 少し前の話になるけれど、京都の五山の送り火に、越前高田の津波被害を受けた松原の松材を使おうとの話があった。放射能に汚染された木材を使うとはどうかとの議論もあったが、被災地支援の意味もあって使用することになった。ところがその薪から僅かにしろ放射能セシウムが測定された。それで京都市は再度「使用しない」と判断したとの事件である。早速マスコミも含めて人々から、こうした判断は風評被害に惑わされたものであり、被災者の心を踏みにじるものだとの批判が起きた。

 また最近では、福島産品を使ったイベントの開催計画が、産品はもとより福島からのトラックが県内を通行するのもどうかとの意見があって中止されたとの報道もあった。少し前になるが福島へ支援の品物を送ろうとしても、輸送するトラック運転手が汚染を恐れて県内に入るのを拒否して思うようにいかないとの報道もあった。

 それもこれも「放射能は嫌だ」とする考えが背景にあるのだが、そんな意見も結局は「風評」の言葉の下に封殺されてしまう。政府が安全基準を定め、その数値を超えるような商品や製品は流通していないのだから、「福島県産」だけをとらえて批判するのは故なき差別であるとの意見である。
 そうした考えを私は分からないとは言わない。でもことは放射能汚染である。安全基準は確かに定められており、それを超えるような流通はないことになっている。でもそれは検査のすり抜けや意図的なごまかしなども含めて間違いのない事実なのか。それに加えて振り出しに戻るけれど、どんな専門家もなぜか「絶対安全」を口にすることはないと言う現実とを、どう対比して考えればいいのかと私は思ってしまうのである。

 そんな例はいくつもある。妊婦に医師が告げている。「年2ミリシーベルトだから安全基準の20ミリよりはかなり低い。でもなるべく外出を控えるように」。これは室内よりも外の放射線が高いことを考慮しての助言であることは自明である。しかも放射能は3.11の原子炉崩壊時に発生した一過性の問題ではない。事故当時がピークであったことは事実かもしれないけれど、今だって放射能は毎日毎日放出され続けているのである。海へ流れた放射能は3.21〜4.23で1.5京ベクレルにもなるのだそうである(9.9、日本原子力研究開発機構発表、朝日)。その数値がどんな意味を持つのか、私にはまるで判断できないけれど、とにかく「すごい量」であることくらいは分かる。

 また最近、福島産のキノコから基準値を超える放射能が検出された。これは破壊した原子炉の周辺には隙間なく放射能が撒き散らされている現実を示している。かてて加えて、検査してから流通させているはずの製茶からも同じように基準値を超える放射能が検出された。それに対し政府は「サンプル検査である以上限界はある。すり抜けないよう検査の網の目を小さくしていくしかない(9.15、農水省幹部、朝日)と発言している。正論だろう。口に入るすべての食品や体に触れる身の回り品などの全部を、漏れなく検査することなど不可能なことくらい誰にだって分かる理屈だからである。


                                  「つのる安全神話への不信(2)」へ続きます



                                     2011.9.16    佐々木利夫


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つのる安全神話への不信(1)