こんなにも放射能汚染が拡大していっているにもかかわらず、「いつになったら風評被害が収束するのだろうか」と嘆く声が依然として続いている。3.11の原発事故で放射能の汚染地域は福島県に限らず近隣から東京都、そして遠くは岐阜県にまで拡大していっている。これは汚染物質が風雨などで直接拡散して行っている地域の話である。これに流通などによる拡散を考慮するなら、放射能汚染は日本中に広がっていっているといってもいいほどである。

 そうした拡散に対して、例えば福島産の米や魚は食わない・買わないといった消費者の選択そのものが、食品に限らず廃棄物や運送手段や、果ては花火大会の花火などあらゆる商品や製品にまで拡大していっている。そうした消費者の行動が福島県で農業を営む者や漁業者などが作物を作れない、作っても売れない、漁獲しても買ってくれないなどの打撃を与えていることは事実である。こうしたお先真っ暗の状況を目の当たりにして死活問題だと嘆く福島県民の声を否定するつもりはない。
 ただ私はそうした消費者の行動を福島の農家や漁師や工場主などが行政も含めて風評被害だと断じ、あたかも消費者の行動が誤りだとでも言い募っていることにどこか納得できないものを感じているのである。

 それは風評被害とは、根拠のない噂だけに惑わされた行動がもたらす結果やそれに伴う被害を指しているのではないかと思うからである。風評とは事実を伴わない単なる噂である。だからと言って「噂なのだから根拠がない」と断定してしまうことは決してできないと思っているのである。「噂=誤り」の等式がどんな場合にも成立するかどうかは、その等式の正否を検証してからでなければ言えないのではないかと思うからである。つまり、その噂が誤りだと完全に否定されて始めて、その噂による被害を風評被害と呼べるのではないかと思うのである。

 もちろん結果的に風評被害になってしまう場合もあるだろう。事実無根の噂で被害を受け、その無根であることが世間に周知されるまでにある程度の期間がかかってしまったような場合、その間に受けた被害もまた風評被害と呼べるだろうからである。ただそうした被害であってもそれが風評、つまり事実無根であることが証明されてはじめて「風評被害だった」と呼んでいいのではないだろうか。

 もちろん結果的に事実無根であるのに受けた被害について、誰がどんなふうに補償してくれるのかという問題は残るだろう。場合によっては、誰も責任を負うことなく損害を受けた者の一方的な損失だけになってしまうことだって起きるかも知れない。ただ、そうしたことが起き得ることを捉えて、風評被害の定義を甘くしたりその範囲を狭くしたりすることは許されないのではないだろうか。

 さて今回の原発事故に伴う放射能汚染に関連した風評被害に話を戻そう。何度もここへ書いてきたから、今更と言われるかも知れないけれど、まず前提として現実に原発事故に伴う放射能が気象を通じあるいは流通を通して全国に拡大している事実はまず認めなければならないだろう。そして次にその拡散していっている放射能が基本的に人体に有害であることも同時に認める必要がある。

 恐らくこの二番目の前提に対して様々な人からの反対意見があることだろう。その意見の多様さが風評被害に当たるのか当たらないのかの分かれ目になっているのかも知れない。つまり「有害」の意味であり、その有害であることの前提として「ある限度を超えた場合に」との条件をつけるかどうかの問題である。そしてそれは、「ここまでは大丈夫、ここを超えたら危険」の判断基準をどこまで科学的に、そして誰もが分かる言葉で説明できるかの問題でもある。

 一番分かりやすい判断基準は「放射能ゼロ」である。これほど分かりやすく理解しやすい基準はない。恐らく小学生や、場合によっては幼稚園児にだって理解できる基準だろう。「ゼロ」であることは、まさに誰にでも分かる安全であることの基準である。だが地上へは太陽や宇宙からの放射能も休むことなく降り注いでおり、それは避けようのない事実でもある。だとするなら私たちの生活環境において放射能ゼロはあり得ないとも言える。しかしそうした意味での放射能は、人類のみならす地球上の生物全体が発祥以来浴びてきたものであり、人類の進化とはそうした環境との共存でもあったわけである。

 ところで自然界に存在する放射能はアルファー線・ガンマ線などと呼ばれ、原子爆弾や原子炉などから発生する放射能とは別種なものであることは既に証明されている。そして今回の原子炉崩壊に伴う放射能は例えばセシウムであるとかストロンチュウムやヨウ素などの呼称がつけられている。つまり自然界に存在する放射能とは区分できるのであり、しかもこの原子炉特有の放射能を直接測定することも現在の技術では可能である。だとするなら、そういった意味での「放射能ゼロ」、つまり原子炉から発生した放射能が皆無かどうかの検証は可能である。

 このことは逆に言うと原発事故以前には原発固有の放射能は存在していなかったことを意味している。測定されたセシウムやヨウ素などの放射能が、仮にどんなに低かろうが政府の安全基準値以内であろうが、測定器の針が動くならその原因は原発事故にあるということである。そしてその事実こそが、どんな意味にしろ風評と呼ばれる騒動の原因になっているのである。

 なぜなら原発由来の放射能が「ゼロ」である環境の存在は、不可能であると分かってきたからである。これまでにも繰り返してきたことだけれど、一度発生した放射能はその値が半分になるいわゆる半減期を繰り返して限りなくゼロに近づいていく以外に、人為的に減少させる手段のないことは少なくとも現在の科学で明らかにされている。つまり俗な言葉で言うなら「煮ても焼いても」、消すことはおろか減らすことすらできないのである。そしてその半減期たるや種類によっては数十年数百年、ものによっては数万年とも言われている。半減期ですら遠い遠い期間である。ましてゼロと同視できるようになるまでには、人の一生を遥かに超えるまさに気の遠くなるような時間が必要になってくるのである。

 そしてそうした放射能が今回の原子炉崩壊と伴なって途方もない量が放出され、風に乗り雨に流されて福島近隣はもとより東北関東、更にはそれよりも遠い地域にまで散らばることになったのである。
 この消えることがなく消す手段すらない見当たらない放射能、その大量発生と大量拡散こそが風評と言われる思いの根源にあるのである。


                               後半は「鈍磨していく風評の中味(2)」に続きます。


                                     2011.12.8     佐々木利夫


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鈍磨していく風評の中味(1)