福島産品などを避けている人たちの行動に対して、「そんなのは風評に惑わされているだけだ」として単なる被害妄想のように扱っている発言が多い。でもそんな行動をしている人たちの思いの背景を、私は次の新聞記事から感じ取ることができる。

 「福島市飯野町で開かれた原発事故講演会。出席した住民の中に、松崎三枝子(62)がいた。会場近くの自宅で、夫と二人で暮らしている。・・・専門家の話が聞けるので参考になると思い、講演会に出かけた。しかし話を聞いても、結局どうしたらいいか分からなかった。2人の研究者の意見は正反対で、専門的なことが分からない自分には判断がつかない。『結局これまでと同じように、自分で気をつけていくしかないと思いました』。・・・トマトは地元産が2個で148円、北海道産は2個で398円だが、北海道産を買う。『だって、心配しながら食べたっておいしくないじゃないですか』・・・」(2011.12.1、朝日新聞、「プロメテウスの罠」)。

 この記事の中に風評の語は出てこないけれど、もし仮に放射能の影響が皆無なのだとしたら北海道産のトマトを買う彼女の行動や思いは、まさに風評に惑わされていることになるだろう。なぜなら実害の心配が皆無であるにもかかわらず、噂に惑わされた無駄な行動になっているからである。でも同時に私は思うのである。もし仮に彼女が「放射能の影響は皆無だ」との自分の判断に確信が持てないでいるのだとしたら、彼女の判断を風評と呼ぶのは誤りなのではないだろうかと・・・。いやいやむしろ、誤りどころか彼女の行動は根拠ある正当な行為と言えるのではないかとすら感じたのである。

 それはつまり「完全に安全であること」の情報が彼女にきちんと伝わっていないことを意味しているからである。無害であるとの情報がすべての人びとに分かるようにきちんと伝えられ、そして確実に信じてもらえるのなら、人びとは決して風評に惑わされるような行動をとることなどないと思うからである。今回の風評と呼ばれる行動の原因が、例えば「福島いじめ」などにあるのではない。例えばかつて日本の自動車がアメリカでジャパンバッシングと言われたような不買や破壊を受けたように、日本車排斥などの特定の目的を持ってなされた差別とはまるで別物である。人びとはむしろ福島の復興を願っているのであり、決して差別による困惑を狙っているのではないからである。

 それにもかかわらずこうした差別が現実に起きているのは、まさに安全であることへの確信が持てない結果によるものだと私は思う。これだけ政府や行政が「安全」を繰り返しても、それが人びとの心に伝わらず届かないのである。人びとは「有害」を確信しているわけではない。ただ単に無害であり安全であるとの情報に信頼がおけず、不安を抱いているだけのことである。

 そうした不安の解消に、政府や行政や専門家などはどうして応えないのだろうか。前掲した新聞記事でも人びとの抱く不安さはよく分かる。講演会に行って話を聞いても「・・・2人の研究者の意見は正反対で、専門的なことが分からない自分には判断がつかない・・・」からである。分からないのに「分かれ」とか、「だったら安全宣言のほうを信じなさい」などと言われても無理である。疑心は暗鬼を生むというけれど、不安もまた増殖していくのである。こうした状態で人は何を信じて行動すればいいのだろうか。答えは簡単である。自分や子どもの命がかかっているのである。「危うきには近づかないこと」、これしかないのである。近寄らないことほど安全への確実な近道はない。

 不安はこの記事の講演会の話だけではない。「花粉用マスクをつければ、浮遊しているセシウムをほとんど吸い込まずにすみ、内部被曝量を減らせる。・・・仮にマスクをせずに体内に吸い込んでいれば、内部被曝は9.3マイクロシーベルトに相当していた」(2011.12.1、朝日新聞、東大アイソトープセンター)、「文部科学省は給食に含まれる放射性物質を1キログラムあたり40ベクレル以下とする安全の目安を定めた」(同上新聞)、「汚染処理水45トン漏れ ストロンチュウム高濃度」(2011.12.5、朝日)、などなど不安をかき立てる情報は毎日の新聞テレビに事欠かない。そもそも広大な地域を除染すること自体が、万が一を考えてのことかも知れないけれど安全宣言とは異なる行動になっているではないか。それに加えて安全宣言をしたにもかかわらず基準値を超えた福島産米が市場に流通していたことが分かるなど、行政の宣言そのものの信頼性すら損なわれてきているのである。

 こうした安全神話が崩れていく過程で言われるのが、放射能が人体にどの程度の影響を及ぼすかについての議論である。そしてそのたびに冒頭で引用した飯野町での講演会での記事からも分かるように、安全と不安の両説が対立している事実がある。広島長崎の原爆投下によって、直接被曝による火傷などの直接被曝の影響は科学的に立証されているようだ。
 だが放射能の恐怖は単にこれだけに止まるものではない。低線量被曝の問題は将来のガンなどの発生や遺伝子の損傷を通じた子々孫々への影響などに加えて免疫力の低下という課題も提起している。そしてそうした影響が皆無と思われる放射能の具体的な基準値について、聞く人の誰もが理解できるような形(反論の余地がないほどの確信)では政治からも学者などからも発信されることはないのである。

 恐らく現時点では、「ゼロ」であること以外に「絶対安全である基準」を示すことは、政府にも専門家にもできないのではないかと私は思う。手を洗い、うがいをし、マスクをして、人ごみは避けるようにする、そんなことで放射能被害を避けることはできない。放射能は道路にも食べ物にも我が家の軒下にも、いたるところに存在し、触るだけ、呼吸するだけ、食べるだけ、飲むだけで体内に取り込まれ内部被曝として累積していくのである。そうした累積していく事実から私たちは、生きている以上逃れることはできない。だから政府にも専門家にも手の打ちようがないのかも知れない。だが「手の打ちようがない」ことと、「だから安全である」こととは無関係であるし結びつけることは許されないはずである。

 ならば体内に休みなく累積していく内部被曝の放射能を可能な限り少なくしていくこと以外に、私たちに残された選択肢はないではないか。広大な日本いやいや世界の中には原発由来の放射能がゼロであるような地域があるかも知れない。だとすればそこへと逃げ出すのも一つの方法である。だが家族を背負い、仕事や知人や友人から離れてどこまで逃げることが可能だろうか。しかもそれでも放射能は「安全基準値以下ですとの宣言」であるとか、「検査をすり抜けてしまいました」などの言い訳のもとで、食品を通じ飲料水やお茶や粉ミルクなどを通じてどこまでも追いかけてくる。

 このように私たちの日常生活は、絶対安全の確信のない状態から逃げることなどできないのである。形もなく臭いもなく、味もない放射能に対して、私たちができる唯一のことはまたまた繰り返すけれど少しでも被曝を少なくするための「危うきに近寄らず」しかないのである。それを風評と呼ばれて批判されようともである。

 このことに福島県もどうやら気がついてきたようである。

 「福島県は5日、農地や森林の除染の基本方針を発表した。県内産のコメや野菜、牛肉などすべての農畜産物と木材やキノコなどの林産物について、モニタリング検査で放射能セシウムが検出されないことを目標に定めた」(2011.12.6、朝日新聞)。

 これは基準値以下を目標とするのではなく、まさに「ゼロ」を目指すとの宣言である。どこまで実現可能なのか、果たしていつになったら実現できるのか課題は多いけれど、少なくともこの目標が達成されるなら風評被害は納まるだろう。それでもなお不買の気配が消えないのだとしたら、そのときこそ堂々と「風評被害」であると言っていいと思うし、まさにそんな状況こそ風評だとして私も応援できるだろう。

 それまでは私は巷で言われる風評被害の言葉を信じない。それは決して風評被害ではないと思うからである。岩だって流れにもまれて河原の石のように角が取れ丸く変化してくのだから、言葉だって時の流れ中にその輪郭を変化させていくのは当たり前のことかも知れない。でもその変化が時に意味そのものの変化にまで及ぶことにはどこか納得できないものを感じる。
 私には「風評被害」の言葉が、政治家や行政から繰り返され、それにつれて被災地を含めた余りにもたくさんの人びとの口に吟味されずにのぼっていくことで、どこかで質的な変化、それも誘導された改変へと強制させられていくように思えてならないのである。


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                                     2011.12.9     佐々木利夫


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